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6-13 訳者解説

6—12でカルディコット博士が紹介したGE(ゼネラルエレクトリック)のエンジニア3人の抗議の辞職について、フクシマの事故を予言する証言だという記事が2012年に出ました。3人の中心人物グレゴリー・マイナーは映画『チャイナ・シンドローム』の技術アドバイザーを請われ、この映画が公開されて12日後に、スリーマイル島原発事故でメルトダウンが起こりました。

マイナー氏の訃報記事:

『ニューヨーク・タイムズ』, 1999年7月31日

「G.C.マイナー、62歳、原子力発電を批判したエンジニア」

 グレゴリー・チャールズ・マイナー(Gregory Charles Minor)、1976年に原子力発電を批判するためにG.E. ゼネラルエレクトリック原子炉課を辞職し、社会に衝撃を与えた3人の管理職エンジニアの1人が、7月20日にコロラド州テルライド(Telluride, Colo)の自宅で亡くなった。62歳だった。死因は白血病で、6月初旬に診断されていた。

 マイナー氏と、リチャード・B・ハバード(Richard B. Hubbard)氏、デイル・G・ブライデンボー(Dale G. Bridenbaugh)氏は、原子力発電は人類に深刻な脅威を引き起こすと言って、GEの原子炉を作る部門から辞職した。3人ともキャリアのほとんどを原子炉建設に費やしてきた管理経営技術者で、彼らの離脱は国中の反原発グループを勇気づけた。

 マイナー氏は「私が辞職する理由は、原子炉と核兵器は地球上のすべての生命に深刻な危険をもたらすという深い思いからです」と宣言し、アメリカ議会証言で、人為的ミスの可能性を引き合いに出して、原子力技術者はあまりに専門化しすぎて、もはや全体像を見られるエンジニアは誰もいないと主張した。その結果、誰一人として制御できる人はいないと言う。

 3人はカリフォルニア州サンホセ(San Jose, Calif.)にコンサルタント会社、MHBテクニカル・アソシエイツ(MHB Technical Associates)を立ち上げ、20年間研究を続け、原子力発電所の安全性、信頼性、建設、経済について証言を行ってきた。MHBは1979年の映画「チャイナ・シンドローム」の技術アドバイザーだった。この映画は原発産業界から弾劾されたが、その年に起こったペンシルベニア州スリーマイル原発事故の部分的メルトダウンを予言するものだった。

 マイナー氏はカリフォルニア州フレスノ(Fresno)の生まれで、カリフォルニア大学バークレー校の電気工学部を1960年に卒業し、1966年にスタンフォード大学の科学修士号を取得した。1960年にG.E.に就職し、原子炉制御、安全システム、制御室の新たな設計を担当するエンジニア・グループの主任であった。今年始めに、マイナー氏、ハバード氏、不ライデンボー氏は引退して、会社を閉鎖した。マイナー氏の病気はフランスに長期滞在した後に診断され、残された時間を家族や友人を訪ねるために、放射線治療と抗がん剤治療を拒否したという。

出典:”G.C. Minor, 62, an Engineer Who Criticized Nuclear Power” by Wolfgang Saxon, The New York Times, July 31, 1999
http://www.nytimes.com/1999/07/31/us/g-c-minor-62-an-engineer-who-criticized-nuclear-power.html [1]

フクシマの原発事故は1976年に予言されていた:

『ゲルニカ』2012年3月9日

「フクシマの核惨事は1976年に予言されていた——フクシマ問題の源は古く、さらに不吉——」

 1976年に3人の原子力技術者がG.E.を辞めた。理由は原子力に関して、彼らが予想した大きな安全問題だった。彼らが設計と建設にかかわったマークI型原子炉は福島で事故を起こした原子炉と同じ型だった。

 グレゴリー・マイナー、リチャード・B・ハバード、デイル・G・ブライデンボーは「G.E.3人組」(GE Three)と呼ばれ、彼らの離脱は原子力への心配が主流になる時期に重なり、彼らの専門家としての証言がアメリカの反原発運動に大きな影響を与えた。

 グレゴリー・マイナーの息子マークが、父が辞めるきっかけになった出来事を語った。マイナーがG.E.の原発の「ブラウン・フェリー」(Brown Ferry)というアラバマ州の原子炉と制御室の設計をしていた時、彼の役割は原発の安全性を高めることで、制御を簡素化し、防護を何重にもすることだった。バックアップの装置を何重にもしていたのに、一人の作業員が漏れがないかチェックする時に、ろうそくを使い、そこから電気システムに火がついた。原発の建設をした者が、すべての電気ワイヤーを一つのトンネルにまとめてしまったために、電気システムの一部が消えると、すべてが消えることになり、システム全体が停止してしまった。何事も起こらなかったが、その時の恐怖によって、マイナーが気づいたのは、どんなに安全性を高める設計をしても、事故は起こり、それは人間のミスによるものが多いことだった。

 マイナー、ハバード、ブライデンボーの3人は、アメリカ議会原子力司法委員会の聴聞会でこの事件について証言し、「ブラウン・フェリー原発の火事は人間のミスによるもので、メルトダウンは免れたが、問題の本質は人間のミスではなく、たとえ原発が人間のミスを想定して設計されても、様々な出来事が重なった上で、単純な人間のミスが原発と市民の安全にとって深刻な事態をもたらすという教訓だ」と述べた。

 辞職後、原子力産業界で彼を雇う所はなく、路頭に迷うと心配していたマイナーのもとに、原子力産業以外から彼の専門性を求める要請が次々と届いた。反原発活動グループ、国会議員、外国政府などで、マイナーは他の2人と共に原発の安全性を専門とするMHBコンサルタント会社を設立した。

 旧ソ連の崩壊後、原発の維持費のない国々の原発の安全性を心配していたウィーン市政府にコンサルタントを請われることもあったが、マイナーを有名にしたのは、映画『チャイナ・シンドローム』の俳優/プロデューサーのマイケル・ダグラスに技術アドバイザーとして雇われたことである。この題名は、原発原子炉がメルトダウンして、中国にまで到達するという仮説シナリオから来ているが、地下水と空気を汚染する前という想定だった。当時、すでに反原発の活動を活発にしていたジェーン・フォンダと共演したダグラス自身は原発について態度があいまいで、メルトダウンのシナリオと制御室内の作業の描写をできるだけ正確にするために、マイナーを雇ったという。

 映画の中で、フォンダ演じるテレビ・レポーターとカメラマンのダグラスが原発の宣伝フィルム撮影中に事故が起きる。最初は何が起こっているかわからないフォンダと同じく、視聴者もわけがわからない状態だが、後にグレッグ・マイナー(俳優が演じている)というエンジニアが説明してくれる。このエンジニアは、ダグラスが密かに撮影していた制御室の様子を見て、リリーフ・バルブ(蒸気放出弁)が開いたままになったため、冷却剤が出てしまい、その後の人間のミス(制御室の人間が冷却剤のレベルを誤読して、多過ぎると判断)が、メルトダウンにつながっていくと説明した。

 この映画はフォンダとダグラスが主演女優賞/男優賞にノーミネートされるという評価をもたらしたが、映画を現実的にするために協力したマイナーが恐れていたことが、映画が公開されて12日後に起きた。スリーマイル島原発で、映画が描いたのと同じ状況でメルトダウンが起きたのである。

 マイナーは1999年にMHBを引退したが、その1カ月後に白血病が進んでいることが発見された。彼の死の1カ月後に、息子のマークは父親が白血病になったことで、誰も責めてはいけないと言っていたが、死の原因となった急性骨髄性白血病は広島の原爆犠牲者が苦しんだタイプの白血病だと言った。

 マイナーを含めたG.E.3人組のような技術者たちの内部告発によって、アメリカの反原発活動は以前よりずっと内容的に洗練された運動になった。代替エネルギーの本『ソーラートピア』の著者であり、nukefree.orgの創設者、ヘンリー・ワセマン(Henry Wasseman)は「現在の反原発活動家は原発技術について熟知し、活動家の中には何十年も原発にたずさわってきた技術者がいる」と言う。そして反原発活動は成功している。なぜなら、「1974年にニクソンは100年以内にアメリカの原発は1,000を超えると言ったが、現在、104しかない」と言う。

出典:”Fukushima’s Nuclear Disaster Foretold in 1976”, by Tana Wojczuk, Guernica Daily, March 9, 2012,
http://www.guernicamag.com/daily/tana_wojczuk_fukushimas_nuclea-2/ [2]
注:『ゲルニカ』サイトにダグラスとマイナー氏が話し合っている写真が掲載されている。