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16-1:【追悼記事】ミシェル・フェルネ(フェルネックス)博士からのメッセージ

2021年10月2日に亡くなったミシェル・フェルネ(フェルネックス)博士を偲んで


 日本ではバーゼル大学医学部名誉教授のフェルネックス博士として知られているミシェル・フェルネ博士(Michel Fernex)が2021年10月2日に亡くなりました。私たちは放射能被ばくの貴重な証言者をまた失いました。

 日本で彼の活動について広く知られるようになったのは福島原発事故1年後に福島の人々が心配だと、日本にいらしてからです。その時、すでに83歳のご高齢でしたが、広島・京都・福島・東京と精力的に回って、講演会や住民・医療関係者との会合で、福島第一原子力発電所事故から放出された放射性物質による被ばくで、どんな影響があるか、免疫力をつけるために野菜をたくさん食べることなど、肥田舜太郎先生(15-1参照 [1])と同じアドバイスをなさっていました。

 フェルネ博士の講演会で上演されたスイスのドキュメンタリー映画「「真実はどこに?—WHOとIAEA: 放射能汚染をめぐって—」(監督ヴラディーミル・チェルトコフ、2003年、注1 [2])にフェルネ博士は中心人物の1人として登場しています。

 チェルノブイリ原発事故(1986年4月)から約10年後の1995年に、当時のWHO事務局長の中嶋宏博士がジュネーブに700人の専門家や医師を集めて、チェルノブイリに関する国際会議を開き、世界に情報を知らせようとしましたが、IAEA(国際原子力機関)が議事録の公開を妨害しました。それを映画の冒頭で、フェルネ博士が糾弾しています。彼自身、WHOのマラリア・フィラリア研究委員会の感染症専門医師として15年間、WHOと協力関係にあったそうですが、チェルノブイリ事故後5年間、WHOが調査にも入らなかったことを激しく非難しています。その理由は、核と原子力被害に関してWHOはIAEAとの条約でIAEAの支配下にあり、放射能被害に関して調査も研究もアドバイスも禁止されているからだと説明されています。この映画は本サイトでも既に紹介しましたが、今後何十年も放射性物質の影響を受け続ける日本の多くの人に見てもらいたいと思います。

 長年、チェルノブイリの被害について心配し、さらなる原発事故を起こさないための反核・反原子力の活動を続けてきたフェルネ博士は、福島第一原発事故に心を痛め、福島の人々に、どんなことに注意すべきか、日本でもIAEAやUNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)、ICRP(国際放射線防護委員会)が暗躍し、被害はないという運動をするのではないかと伝えたいという強い思いで、自己負担で来日されました。以下が博士の日本でのスケジュールです。

    2012年

  • 5月16日:広島 セミナー、於:広島大学平和研究所
  • 5月17日:京都 立命館大学平和ミュージアム訪問
    IPPNW(核戦争防止国際医師会議)京都支部、京都反核ネットとの懇談会
  • 5月18日:京都 映画上映と懇談会:福島からの避難者、IPPNW、反核ネット
    於:保険医療協会事務局
  • 5月20日:浦和 肥田舜太郎医師と合同講演会、於:埼玉県保険医協会
  • 5月21日:郡山市 市民との交流会:「子ども全国ネット」(放射能から子どもたちを守る全国ネットワーク主催)
    福島の医療関係者との交流会
  • 5月22日:福島市 市内見学(放射能汚染の状況)、CRMS(市民放射能測定所)見学
  • 5月23日:東京 映画上映と講演会(高木学校:原子力資料情報室代表だった高木仁三郎氏が設立した市民科学者育成のための組織、内部被ばく研究会主催)

 以下の写真はフェルネ博士が肥田舜太郎医師とご一緒に講演会をした日の講演前の様子です。フェルネ博士を囲んで、左側に肥田先生、手前の後ろ姿の方が松井英介先生です。フェルネ博士の来日と、日本でのスケジュール作成・調整にご尽力なさった松井先生も2020年8月に逝去されました。松井先生の詳細はThe Atomic Age(注2) [2]を参照してください。

[3]

 この3人の貴重な証言者の方々が今はいないという思いは、悲しみだけでなく、日本のこれからに心細さを感じさせます。特に福島第一原発の廃炉作業の見通しが立たず、廃炉作業の中で出てくる汚染水を海に放出、汚染土も保管せずに全国で利用という政府の恐ろしい政策に加え、食品の放射能汚染も10年半後の今も後を絶たない現状だからです。事故による放射能被害を防ぐための小児甲状腺がんの検診を縮小または廃止する政府と福島県の動きは最悪です。まるで原発事故はなかった、放射能汚染は安全だというような施策(安倍元首相による東京オリンピック招致での安全アピールを含め)が続き、2021年10月からの自民党岸田政権も原発再稼働、原子力エネルギー継続を宣言している現状では(注3) [2]、チェルノブイリ原発事故で何が起こったかを知っていて、日本で繰り返してはならないと危機感を持ったフェルネ博士のような方が必要です。

 2012年5月22日に市民放射能測定所の方に案内されて、フェルネ博士は福島市内をまわりました。渡利地区の公園で撮った写真をフランスの放射線専門家に送った時の反応をご紹介します。「この公園は除染作業が完了しました」という立て看板の隣のモニタリング・ポストの値が0.479μSv/hを示している写真です。早速驚きの返答がきて、「除染後でも年間線量が4.2mSvになる! ICRPの非科学的限度値でも、一般市民が受けていいとされる線量の4倍以上だ。土壌表面のセシウム量は240,000Bq/㎡だろう」とのことでした。そして、そこでの生活は勿論、子どもを決して近づけてはならないと忠告しました。

[4]

 ベラルーシ法の基本は「年間被曝量が1ミリシーベルトを越えなければ、人々の生活および労働において何の制限措置も必要としない」というものです。日本政府は国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告を受けて、20mSvまで子どもが普通に暮らしていいとしています。

[5]

フェルネ博士からのメッセージ

 フェルネ博士は来日中に日本が「エートス・プロジェクト」を計画していると聞いて、以下の事実を日本の人々に伝えたいとのことでした。「エートス・プロジェクト」の実験地であったベラルーシのストリンで2001年11月15〜16日に行われた第1回「エートス・プロジェクト」の国際セミナーが開かれ、ミシェル・フェルネ博士ご夫妻も、ヴラディーミル・チェルトコフ監督も出席していらしたそうです。フェルネ博士のメッセージをお伝えする前に、ベラルーシにおける「エートス・プロジェクト」とはどんなものだったのかを紹介します。「エートス」の意味は、古代ギリシャ語で習慣・習俗を意味し、倫理学(ethics)はこの語に由来するそうです(『チェルノブイリの犯罪』上、p.521, 訳注4)。チェルノブイリでこのプロジェクトを行った人々が福島原発事故直後に日本に対して、更にエスカレートした勧告を行い、日本政府が従った結果が2021年の恐ろしい動きにつながっています。

広島で発表された「エートス・プロジェクト」(2000年5月18日)

 福島第1原発事故の11年前に日本保健物理学会主催の「国際放射線防護学会」(IRPA)が広島で開催され、日本学術会議、科学技術庁、文部省、日本原子力研究所、核燃料サイクル開発機構などから協力・支援があり、大会のテーマを”Harmonization of Radiation, Human Life and the Ecosystem” [放射線・人命・エコシステムの調和]として、広島を選んだそうです(注4) [2]。放射能汚染と人間と環境が調和的に共存できるというテーマが「エートス・プロジェクト」だったのです。

 この大会で発表された「放射能汚染地域における生活状況の回復—エートス・アプローチ」(Rehabilitation of Living Conditions in Contaminated Territories: The ETHOS Approach, 注5 [2])は2000年5月に発表された「ベラルーシにおけるエートス・プロジェクト 1996-1998: チェルノブイリ事故で影響を受けた汚染地域における生活条件の回復に関するエートス研究プロジェクトの主要結果の統合」をそのまま掲載しています。

 このプロジェクトの主催者の解説をまとめると以下のようになります。

「エートス・プロジェクト」の目的

  • 原発事故後の汚染地域の住民が生活条件の回復過程で自主的に関われるようにする。
  • 住民の自信と社会の信頼感を回復する。

目的達成のための実行者

  • 学際的アプローチから放射線防護・社会学・農学・自然と人命管理・経済学・リスクの社会管理・技術安全・コミュニケーション・経済学・社会的信頼の専門家で構成。

実験対象地の選択

  • ベラルーシ政府・地方政府等と交渉の末、ブレスト(Brest)地方ストリン(Stolyn)地区のオルマニー村(Olmany)が候補地になった。
  • ベラルーシ法(1991)によると、オルマニーは「自主的移住ゾーン」に指定され、個人の年間被ばく量は1〜5mSv、セシウムの土壌汚染は185〜555kBq/㎡とされている。
  • 選択地の基準はベラルーシ法で「完全避難ゾーン」でなく、生活条件の回復が必要なこと。
  • オルマニーの人口は1265人、17歳以下が369人。この村の完全避難が政治課題になっている時に、ほとんどの村人は避難に反対した。

実験の結果

  • オルマニーの村民は村と周辺の放射線状況を以前よりもっとはっきり掴んだ。
  • 111Bq/L(流通可能な汚染限度)以下の牛乳の生産が冬には25%から55%に増え、夏場は10%以下だったのが80%に増えた。
  • 非汚染地区との牛乳と肉の経済回路が回復した。
  • 子どもたちの平均内部被ばくが30%減った。

フェルネ博士の報告:第1回エートス・プロジェクト成功報告会(2001年11月15〜16日)

 以下は出席したフェルネ博士が福島の人々に伝えてほしいと報告してくださった内容です。チェルノブイリ事故から15年後のことです。

 この国際セミナーで最後に発表したのは、この地区を担当する小児科医でした。いろいろなデータを示してくれましたが、医学のどの分野でも、壊滅的な状態を示すものでした。

  • 誕生時からの恒常的な健康悪化
  • 深刻な症状の急激な増加
  • ブレストでは入院を必要とした子どもが1986-87年の10倍に増加。
    (注:ブレストはオルマニーから西へ400kmほどの位置にある人口31万人の都市で、放射能汚染の点では、オルマニーほど高くない所のようです)。

 この小児科医以外のプレゼンテーションはすべて主催者が準備し、配布資料がありましたが、小児科医の発表については主催者側は何の用意もせず、配布資料もなく、セミナー後に公刊された長い報告書には彼女の報告は削除されていました。

 エートス・プロジェクトの目的はなんだったのでしょう? エートス・プロジェクトの医学的失敗は、子どもたちの健康の改善が見られなかったどころか、子ども達の症状が恒常的に悪化していったことです。特に重篤な症状で入院する子どもたちが10倍にも増えたことです。これは誰もが最も知りたい情報のはずです。

 報告書の中で「汚染地域における健康問題に関する研究は続けられなければならない」とされていますが、この報告は真実ではありません。このセミナーでは小児科医が報告したのですから。

 この国際セミナーでフェルネ博士はプロジェクト・チーム内の専門家に実際のところはどうだったのか聞いたそうです。

 状況について、小規模農業の専門家として知られているオラニョン教授の言葉を借りて要約します。この人物とは会議で会ったのですが、そこにはロシャール氏もいました。オラニョン教授にエートス・プロジェクトの結果を聞くと、「上出来でしたよ。でも、子どもたちがどんどん悪くなっていきました」と言うのです。

 オラニョン教授は真実を語っていました。私はエートス・プログラムの最終段階の頃に、ベラルーシのストリンにいましたから、よく知っています。[会議では]報告者すべてが、いかにすばらしいプロジェクトか、市民といかにうまくやったかを説明していました。汚染が深刻な地域ほど、[放射線]防護がうまくいったと。母親の[放射能]教育について、そして、最後にじゃがいもの生産について、セシウム137が以前より少なくなっていたので、ミンスクでもこの汚染野菜が販売できる程度に、ぎりぎりだけれど、下がっていたことなど。このように、会議全体は見事にまとめられ、発表者はみなパワーポイントでスライドを見やすいスクリーンに映すなど、見事でした。

 最後にこの地区を担当している小児科医が登場しました。彼女はパソコンも持たず、パワーポイントのスライドもなく、手書きの紙原稿と、複雑な表を持って現れ、それを手で示しながら話すのです。最後の発表者でした。彼女の話は私にはよくわかり、表も見せてもらいました。

 エートス・プロジェクトが行われた5年間、状況はどんどん悪くなっていきました。呼吸器感染が頻度だけでなく、深刻度の点でも増えていき、異常な合併症を伴い、心臓病もずっと深刻化し、どの症状でも同様でした。[チェルノブイリ原発]爆発の年は、入院が必要な事例は年間100だったのに(1986—88年は変化がなく)、その後、極度の感染症による入院者数は年々上昇し、最後の年は1200事例でした。エートス・プロジェクトが始まって、この増加線は安定するどころか、落ち着く筈の年にまで上がっていたのです。[学校の]学期中の欠席者数は増え、尿管の感染症がぶり返し、慢性化しました。問題は生まれると同時に始まり、新生児のほとんどが治療を必要としていました。

 エートス・プロジェクトは医学的に見れば「惨事」です。この小児科医のデータは出版されることなく、忘れ去られています。エートス・プロジェクトは次のコア(CORE)・プログラムのモデルとなって、これは今も続いています。ロシャール氏のこのような許されない行為をどうやって阻止できるかという点について、日本の医者のみなさんが、この現実に目を覚まし、現状を正しく研究してくれることを今でも[遅すぎるけれど]願っています。この放射能事故によって、市民全体の健康がとてもゆっくりとしたペースではあるけれど、悪化し続け、それは一番幼い子どもから始まり、次に原子炉で働く作業員、そしてその子どもたちというように、ただし、被曝した父親よりも子どもの方が先に悪くなる場合が多いということに、日本の医者はもっと関心を払うべきです。

「エートス・プロジェクト」のもう一つの顔

 フェルネ博士が福島のみなさんに是非伝えてもらいたいというもう一つの点は、「エートス・プロジェクト」がベラルーシに入ってくる6年以上前から住民の放射線測定や放射線被害防止のための研究と活動を続けていた民間組織「ベルラド研究所」(注6) [2]があったのですが、「エートス・プロジェクト」はベルラド研究所の計測機を使用し、研究所の技師を使って、地域の生産物の放射線量を計測したのです。しかし、その結果をベルラド研究所長のヴァシリー・ネステレンコ博士に渡さずに隠蔽したのです。計測結果が期待したものではなかったからです。

 「エートス・プロジェクト」は世界銀行なども関わる世界的なプロジェクトですから、資金も潤沢だった筈ですが、ベルラド研究所の技師と機具を使い、その分の給料を要求しても認めませんでした。また、研究所が開発したペクチン(リンゴや柑橘類の繊維質)を3週間子どもに与え、セシウムの蓄積を減らす研究所のプログラムへの資金援助も断り続けていました。「エートス・プロジェクト」が得た情報の提供と、研究所の活動に対する支援を依頼すると、「ストリン地方で追跡調査する予算はない」と一蹴されたそうです。

 ヴァシリー・ネステレンコ博士(1934-2008)はベラルーシの核エネルギー研究所所長で、原子炉開発で著名でしたが、チェルノブイリ事故に衝撃を受け、事故直後にヘリコプターで上空を飛んで視察をし、その後は亡くなるまで住民を放射線被害から守るための研究と活動を続けた方です。また、バンダジェフスキー博士と共に内部被曝の研究をして、チェルノブイリの放射能被害に関する研究書としては最高と評価されている『調査報告 チェルノブイリ被害の全貌』(アレクセイ・ヤブロコフ博士、ヴァシリー・ネステレンコ博士ほか著、ニューヨーク科学アカデミー刊の日本語訳、岩波書店、2013)の共著者として知られています。

注1:スイス・ドキュメンタリー映画「真実はどこに?—WHOとIAEA: 放射能汚染をめぐって—」(Controverses Nuclaires)、監督ウラディミール・チェルトコフ、2003年、以下のURLから視聴できます。 https://www.dailymotion.com/video/xr3ur9 [6]

注2:「追悼 松井英介先生 via雁屋哲 今日もまた」The Atomic Age, 2020-09-13
https://lucian.uchicago.edu/blogs/atomicage/2020/09/14/追悼%E3%80%80松井英介先生%E3%80%80via-雁屋哲%E3%80%80今日もまた/ [7]

注3:浅川大樹ほか「岸田政権、中枢に原発推進派 歓迎する電力業界」『毎日新聞』2021/10/4
https://mainichi.jp/articles/20211004/k00/00m/010/091000c [8]

注4:Tomoko Kusama “10th International Congress of the International Radiation Association”, Japanese Journal of Health Physics, 2000, Vol. 35, Issue 3
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhps1966/35/3/35_3_261/_pdf/-char/en [9]

注5:Thierry SCHNEIDER, “Rehabilitation of Living Conditions in Contaminated Territories: The ETHOS Approach”, May 18, 2000, Hiroshima, Japan. http://www.irpa.net/irpa10/pdf/E11.pdf [10]

注6:「ベルラド研究所」りんご野
http://ringono.com/apples/belrad/ [11]