【訳者解説】放射線許容線量をめぐる論争の背景

1976年に議会主導の低線量被ばくに関するセミナーが開かれた背景には、1969年にアメリカ上院議会の委員会でジョン・ゴフマン博士が証言し、現行の放射線許容線量は防護ではなく、多くの市民ががんになる惨事に結びつくと述べたことなどがあります。

訳者解説:このセミナーを開催するきっかけをガリー・ハート民主党議員(Gary Hart: 1936-)が冒頭で説明していますが、その中に引用されているのが、ゴフマン博士とタンプリン博士の主張です。政府が設定した一般市民用放射線許容線量を「被ばくすると、がんや白血病が引き起こされ、追加の死者が年間32,000人出るという心配な結果になるそうです」。

ジョン・ゴフマン博士(John Gofman: 1918-2007)
1976年議会セミナーにゴフマン博士もパネリストとして予定されていましたが、欠席しています。タンプリン博士は1978年議会セミナーのパネリストの一人でした。

ゴフマン博士の経歴:大学で化学を専攻し、核物理化学でカリフォルニア大学(バークレー)から博士号を得て、1941年から1943年までカリフォルニア大学でマンハッタン計画のプルトニウム計画に関わり、オッペンハイマーの依頼で、1ミリグラムのプルトニウムを抽出することに成功した。しかし、原爆に反対し、1944年にカリフォルニア大学医学部に編入学して、1947年にカリフォルニア大学バークレー校物理学部医学物理学の助教授、1954年に教授に昇格し、心臓病の研究で世界的に知られるようになる。

1950年代にロスアラモスに次ぐ第二の核兵器研究所がバークレー校近くのリヴァモアに設立され、物理学・化学・医学に精通しているゴフマン博士にローレンス放射線研究所(リヴァモア)の安全管理の依頼がくる。1950年代は大学で教えるかたわら、研究所の医学責任者として、1960年代には新たに設立された生物医学部の部長として放射線と健康への影響について研究をする(注1)

放射線許容線量をめぐる論争の背景

・ 1957年:核実験のフォールアウト(降下物、死の灰)によって1万人がすでに死んだか、死につつあるとノーベル化学賞受賞者のライナス・ポーリング博士(Linus Pauling: 1901-1994)が『サイエンス』誌に推定を発表。同年、原子力委員会は核実験場附近のネバダ州とユタ州住民に対して「フォールアウトによる健康への影響はありません」というパンフレットを配布。

・ 1958年〜61年:核実験モラトリアム

・ 1962年:地下核実験を開始。牛乳や野菜から検出された放射性ヨウ素の量が深刻だと判明。

・ 1962年〜63年:原子力委員会生物医学部フォールアウト部門の数学者ハロルド・ナップ博士(Harold Knapp)が、それまでの核実験によって放射性ヨウ素が実験場付近の子どもたちの甲状腺にどのぐらい蓄積しているかを計測し、許容基準の100倍だと計算した。そのデータを公表すると表明したことで、原子力委員会が阻止しようとした。原子力委員会はゴフマン博士にナップ博士に出版を思いとどまらせるよう依頼したが、ゴフマン博士はナップ博士のデータをみて「非常にしっかりしているから、出版するように」と助言した。

・ 1963年:ケネディ大統領により、アメリカ・イギリス・ソ連の間で「部分的核実験禁止条約」が調印され発効されたが、地下核実験は対象外。

・ 1965年:原子力委員会は平和的核利用という名目で、パナマ運河の掘削に水爆を使用する案があり、その役員会でゴフマン博士は「生物学的狂気」だと反対した。結局、この案は実行されなかったが、ゴフマン博士は原子力委員会とローレンス放射線研究所から「内部の敵」とみなされるようになる。エネルギー省資料(注2)によると、1961年から1973年にかけて27の産業用核爆発テストを行った。

・ 1969年:弾道弾迎撃ミサイル制限条約が上院で議論されている頃、アーネスト・スターングラス博士(1976年議会セミナーのパネリスト)がこの核兵器プログラムによって40万人の赤ん坊が遺伝的影響を受けると発表し、原子力委員会がゴフマン博士に検証を依頼した。ローレンス放射線研究所でゴフマン博士の同僚だったタンプリン博士がこの推計の検証をしたところ、40万ではなく4万という計算になり、それを雑誌『原子力科学者』(the Bulletin of the Atomic Scientists)に掲載した。原子力委員会はタンプリン博士の掲載論文に不快感を示し、その理由が、掲載誌が一般人の見られない学術誌なら許せるが、大勢の市民に読まれる雑誌だったからだと聞いて、ゴフマン博士は原子力委員会生物医学部長に「隠蔽しようというに等しい。地獄に落ちろ」と抗議した(注1)。

・ 1969年10月29日:ゴフマン博士は米国電気電子学会(IEEE: Institute for Electrical and Electronics Engineers)でスピーチを頼まれ、博士自身の表現によれば、「非常におだやかで控えめで目立たない内容」で、現行の放射線許容線量を浴びると、年に16,000人から32,000人死ぬことになると発表。原子力委員会が今度は、事前に原子力委員会に知らせずにスピーチを行い、大勢のジャーナリストが来たから問題だという。そして放射線の健康影響について話す時は事前に原稿を見せるよう指示された。次にタンプリン博士が米国科学振興協会(AAAS: American Association for the Advancement of Science)のシンポジウムでスピーチをすることになっていて、リヴァモア研究所内でスピーチ原稿が検閲され、内容すべてが却下された。ゴフマン博士は「リヴァモア研究所は科学の淫売屋だ」と苦情を表明し、ゴフマン・タンプリン博士と原子力ムラとの「低線量の健康被害論争」が始まった(注1)

・ 1969年11月18日:ゴフマン・タンプリン博士がアメリカ議会上院第91回議会「公共事業の大気水質汚染に関する小委員会」(マスキー上院議員主導)で証言「一般大衆の放射線被ばくに関する連邦放射線審議会のガイドライン——防護か惨事か?」(注3)。アメリカ原子力規制委員会(当時の原子力委員会)のホームページに以下のように記されている。

放射線論争:原子力委員会の控えめな見積もりと原発運転の実績は、原子力委員会の放射線基準に対する批判を防ぐことはできなかった。(中略)原子力委員会の放射線基準の妥当性は1969年秋には更なる論争の対象になった。二人の著名な科学者、ゴフマン博士とタンプリン博士が、もしアメリカの人口全部が現行の許容線量を受けると、年間17,000人(後に32,000人に訂正)の追加がん死を起こすと言った。二人は原子力委員会が資金拠出しているリヴァモア国立研究所の研究者で、内部の人間だということがよけいに彼らの主張に信憑性を与えた。最初二人は原子力委員会が線量限度を10倍下げるべきだと提案したが、後には放射線の放出はゼロにすべきだと要求した。ゴフマンとタンプリンは原子力委員会と他の放射線防護組織の現行基準が不適切だと言っただけでなく、原子力の便益がリスクに値するという広くゆき渡っているコンセンサス(総意)にまで挑戦した。ゴフマンの分析は特に厳しく、「放射線防護規制の中で原子力委員会は、リスクがあるが[原子力の]便益は死者の数より勝ると述べている。これは法律上認められた殺人だ。唯一の問題は何人殺すかである」と言っている(注4)

ゴフマン博士は1979年のインタビューでも「原発[建設/稼働]を認可するということは、私に言わせれば、無差別計画殺人だ」と述べている(注5)

この後、原子力委員会がゴフマン博士の染色体研究の研究費を剥奪したため、国立がん研究所に研究費申請をするが、原子力委員会にたてつく者に研究助成金は与えないという理由で無視されたのだろうと言う。その結果、ゴフマン博士は研究所を辞めて、カリフォルニア大学の教授に戻った。

1994年のエネルギー省「放射線人体実験」インタビューで、ゴフマン博士は次のように述べている。「エネルギー省や原子力委員会の研究所の科学者たちは奴隷帝国にいるように感じ、奴隷のような言動をしている。素晴らしい研究施設にはいるが、事実を述べる自由がないことは科学にとっても、人類にとってもよくない。このような奴隷帝国文化は低線量放射線は無害という間違った答を生み、いずれ何百万、何千万という人に害を与える」。

しかし、1950年代のゴフマン博士は核実験によって放射能被害があるという証拠はないと述べていた。そのことについて、自分はニュルンベルグ裁判にかけられて当然の罪を犯したと恥じているとも告白した。多くの科学者は変わっていないかと聞かれ、「彼らは市民の方が放射能は有害だと証明する義務があると思っている。安全だと証明しなければならないのは自分たちだとは思っていない。私は全く逆だと60年代からは思っている」と述べている(注1)

・ 1970年1月1日:前年12月に議会を通過した「国家環境政策法」(NEPA)にニクソン大統領が署名し、画期的な環境保護の法律とされた。骨子が作られたのはケネディ・ジョンソン大統領時代で、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(1962)も大きな影響を与えたという。

・ 1971年7月:原発の通常運転が起こす環境問題(温排水を河川や海に放出することによる生態系への深刻な影響)を心配する市民と若手弁護士が原子力委員会を相手どって、メリーランド州カルヴァート・クリフ原発停止を求める裁判を起こし、7月に連邦最高裁が「原子力委員会が国家環境政策法をねじ曲げて解釈したことは、この法律をあざける行為だと信ずる」と述べた。原子力委員会に対する不信感が高まり、原発への支持が減っていったことと、市民が環境法の実行に関与する道を作った裁判と評価されている(注6)。

・ 1971年10月9日:『ワシントン・ポスト』に放射能人体実験のうち「全身照射」(TBI)実験についての記事が掲載された。その約20年後にプルトニウム注射による放射能人体実験に関する記事がニューメキシコ州の『アルバカーキ・トリビューン』紙に連載された。女性記者アイリーン・ウェルサムが1987年に入社して間もなく、放射能の動物実験について知ったことから調査を進めて知った大規模な人体実験だった。彼女の連載記事が1993年11月15日に掲載され、約1ヶ月後の12月7日に、エネルギー省長官に就任して1年目のヘイゼル・オリアリー(初の黒人女性長官)が記者会見でプルトニウム人体実験を非難した。そして、「オリアリー・イニシアチブ」と呼ばれる、当時の極秘文書の公開に踏み切った(注7)

エネルギー省はオリアリー長官とクリントン大統領(当時)の開示指示を受けて、当時の極秘文書の公開をオープン・ネットで行っている(https://www.osti.gov/opennet/)。ただ、残念なのは、人体実験について生存者を1994〜95年にインタビューした「放射線人体実験:オーラル・ヒストリー」(上記のゴフマン博士のインタビューも掲載された)というサイトを2014年6月初旬に削除してしまったことである。「オープン・ネット」では検索するのも大変だし、個別のファイルしかアクセスできない。削除されたサイトは全体像が見やすく、画面にすべてが掲載されていたので、ネット初心者でも簡単にアクセスできた。

・ 1974年:原子力委員会に対する批判と不信感が高まった。特にその二重の役割(原子力推進と規制)は「狐に鶏小屋を見張らせるようなもの」だと批判され、議会は原子力委員会を二つの組織「エネルギー研究開発局」と「原子力規制委員会」に分ける法律を制定した(注4)

・ 1975年3月:アラバマ州のブラウン・フェリー原発で人的ミスから火災が起こり、7時間燃え続けた。

・ 1975年10月:原子力委員会が1972年にマサチューセッツ工科大学のラスムセン教授(Norman Rasmussen: 1927-2003 原子力工学)に委託して始まった「原子炉安全研究」結果が公開された。結論は、火事、爆発、有毒化学物質、飛行機事故、地震、ハリケーンなどに比べ、原発事故は非常に少ないというものだった。この報告のデータは結論と相容れないなどの批判を受け、原子力規制委員会は1979年1月にこの結論への全面的支持を取り下げた。炉心の半分がメルトダウンしたスリーマイル島原発事故が起きたのは、その2ヶ月後だった(注4)

注1: 「人体実験—ジョン・ゴフマン博士のオーラル・ヒストリー」(Human Radiation Studies: Remembering the Early Years Oral History of Dr. John W. Gofman, M.D., PhD.), Conducted December 20, 1994, US Department of Energy, Office of Human Radiation Experiments, June 1995:
https://www.osti.gov/opennet/servlets/purl/221884/221884.pdf

注2: Plowshare Program: https://www.osti.gov/opennet/reports/plowshar.pdf

注3: Gofman, J. W. and Tamplin, A. R. “Federa1 Radiation Council Guidelines for Radiation Exposure of The Population-at-Large—Protection or Disaster?”, Testimony presented before The Subcommittee on Air and Water Pollution Committee on Public Works, United States Senate, Congress, November 18, 1969.

注4: “A Short History of Nuclear Regulation, 1946-1999”:
http://www.nrc.gov/about-nrc/short-history.html

注5: Leslie J. Freeman (1981), Nuclear Witnesses: Insiders Speak Out, W.W. Norton & Company, New York, p.111.

注6: A. Dan Tarlock, “The Story of Calvert Cliffs Coordinating Council: A Court Construes the National Environmental Policy Act to Create a Powerful, Procedural Environmental Cause of Action”, http://www.law.fsu.edu/faculty/2003-2004workshops/tarlock.pdf

注7: アイリーン・ウェルサム『プルトニウム・ファイル』(渡辺正訳、翔泳社、2013)

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