LNTモデルを否定し、胎児・子ども・公衆・職業被ばく限度を年50mSvにせよという請願
本サイト13 (7)で紹介した山下俊一氏の2016年5月26日発表の論文「福島原発事故後の若年者の甲状腺がん−−スクリーニングの影響か本当の増加か?−—」(注1)の一節を抄訳する。
山下氏の論文は責任逃れの意図が反映するような曖昧で非論理的な表現が多い。“relocate”の使い方もチェルノブイリの場合は避難・移住の意味で使われているので、「移住」と訳したが、山下氏の文脈と彼の5年半の言動からは、「移住させよ」と示唆しているとは考えにくいので、現在避難している人々を帰還させるという意味で使われた可能性が高い。
そうであれば、責任を問われない曖昧表現で、「100mSv以下は健康影響がないから現在進行中の甲状腺がん増加は被ばくが原因ではない。それなのに、高い有病率で不安になっている避難者たちは帰還しない。また、放射線量ゼロから線量が上がるに従って健康影響が現れるというLNTモデルを信じる者はメンタルな問題を抱え、このような精神病者の多さは深刻な公衆衛生問題だ」と言っているのだろう。こんな差別発言をアメリカ臨床腫瘍学会は認めるということだろうか。この発言の後に自民党が「帰還困難区域」に住民が居住できる「復興拠点」を設けるというので(注2)、山下氏らの発言は安倍政権の動きとも連動していることがわかる。
山下氏のLNTモデル否定論がどこから来ているのか調べ始めたところに、『ウォール・ストリート・ジャーナル』の記事「少量の放射線はそれほど悪いのか:『発がんリスク仮説』見直しの動き」(2016年8月12日、日本語版8月15日 注3))が飛び込んできた。カリフォルニア大学ロサンゼルス校のキャロル・マーカス教授(放射線医学、77歳)がアメリカ原子力規制委員会に請願書をだし、LNTモデルの採用を止めて、一般市民の年間1mSvの被ばく制限を原子力産業従事者と同じ被ばく許容量の年間50mSvに上げるよう、規則の改定を求めたという。
この報道の真偽を確かめるために、NRC(アメリカ原子力規制委員会)のHPにアクセスしてみた。確かに、2015年2月にマーカス教授を含めた3人から同様の請願書が届き、NRCはそれを元にパブリックコメントを開始して、締め切りの2015年末までに635通の意見が寄せられたことがわかる。新聞記事によると、このコメント数は過去最多で、大半はマーカス博士の主張に反対しているという。アメリカ環境保護局(EPA)もコメントを出し、放射線とがんの関係は「特に強い」、「放射線防護を、根拠に乏しく極めて憶測的な考え方に基づいて構築する」危険性を警告しているいう。この請願書に関するアメリカ原子力規制委員会の勧告は来年(2017年)まで出されないと予想されているというのが上記記事の報道である。
NRCのHPに掲載されている請願書の内容とパブコメまでの経緯が書かれている文書(2015年6月16日付 注4)を抄訳する。規制委員会の事務局長名の文書である。
アメリカ原子力規制委員会(NRC)は3通の請願書を受け取った。NRCの「放射線防護基準」に関する規則を改定して、規則の基である放射線防護の「しきい値なし直線」(LNT)モデルから「放射線ホルミシス」モデルに変えよという請願である。放射線ホルミシス・モデルは人間の体が低線量の放射線に被曝するのは有益で、高線量の有害な影響から体を守ってくれるというものである。一方、LNTモデルでは放射線はいつでも有害だと考えられ、安全なしきい値などは存在せず、電離放射線によって起こる生物学的損傷(基本的にがんリスク)は人体への被ばく量に比例して直接的に上がっていく(応答直線性)とされる。
請願書はキャロル・マーカス(2015年2月9日付)、マーク・ミラー(2015年2月24日付)、モーハン・ドス(2015年2月27日付)から提出された。NRCはこれらの請願書であげられた問題を検討し、規則制定にこれらが考慮されるべきかを決定する。NRCは規則制定のためのこれらの請願書に関して、パブリックコメントを求める。
請願者・請願内容
キャロル・マーカス博士はカリフォルニア大学ロサンゼルス校、医学部・放射線科学と分子・医学薬理学(放射線医学)、放射線腫瘍学の教授である。マーカス博士はまた1990〜1994年までNRCの「アイソトープの医学的使用に関する諮問委員会」の委員だった。この請願者は次のように述べる。「1956年に米国科学アカデミー『原爆放射線の生物学的影響委員会/遺伝学パネル』(BEARI)がLNT仮説の使用を推薦して以来、この仮説を支持する科学的正当性は一度たりともなかった」「このLNTに基づいた規則に従うためのコストは巨大である」。
マーク・ミラー氏は認定・保健物理学者である。「LNT仮説を支持する科学的正当性は一度たりともなかった」「LNTに基づいた規則に従うためのコストは計り知れない」と述べ、この請願者はさらに、LNT仮説を使用することが「根強い放射能恐怖症をもたらした」と述べている。
モーハン・ドス博士は「正確な放射線情報を求める科学者」団体を代表して請願書を提出した。この団体のミッションは「放射能恐怖症に関係した不必要な死亡・疾病率と放射線医療診断/治療に対する不信感に伴う損傷、および核/放射能事故から[の損傷につながるのか、原文が不明瞭]を防ぐための手助けであり、ニュースやその他の、学術雑誌論文を含めたメディアによってアラーミスト[alarmist:大げさな警告を発する人]が広める恐怖症助長の誤報に反論すること」とされている。
キャロル・マーカス博士はNRCに対して、LNT仮説を基にした規則を改正するよう求め、「この超単純化した概念は、どんなに小さくても、全ての放射線吸収線量が致命的ながんを引き起こす有限確率性(finite probability)があるとみなしている」と述べる。この請願者はさらに以下のように述べる。「LNT仮説の使用は、規制者たちが実際の線量限度によって、あるいは、『合理的に達成可能な限り低く』(ALARA)原則を使って、作業員と一般市民の許容線量を徐々に下げることが正当化されていると感じることを可能にしている。その結果、規制側が全ての人をより安全にしている(そして、自分たちと[原発]事業者の仕事量を永遠に増やし続ける)という幻想を与えることになる」。
この請願者は以下の改正を求めている。
1) 作業員の線量は現在のレベルのままを維持し、この線量が慢性的なら、年間100mSvまで実効線量を認めるべき。
2) ALARA原則は規則から完全に外すべき。請願者は「無害なだけでなく、健康にいい(hormetic)かもしれない放射線量を下げるというのは意味がわからない」と反論している。
3) 公衆の線量は作業員の線量まであげるべき。請願者は続けて「この低線量は健康にいいかもしれない」と述べて、「なぜ公衆から低線量の恩恵(benefit)を奪うのか?」と尋ねている。
4) 妊婦・胎芽・胎児・18歳以下の子どもに別の線量を課すのは終わりにせよ。
マーク・ミラー氏もマーカス博士と同じ内容の請願である。
アメリカ原子力規制委員会も呆れている様子が引用の仕方に見えるようだ。「正確な放射線情報を求める科学者」のミッションの文章が曖昧なので、この団体のHPでチェックしたところ、原文通り、つまり原文が曖昧だった。
このマーカス博士はこの1か月後にNRC事務局長宛に手紙(注5)で以下のように要望している。この手紙もNRCが公開しているので、要点の一部を紹介する。
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- NRCが計画している放射線防護要件をICRPの勧告に近づけるという案に反対する。NRCはICRPから遠ざかるべきである。ICRPはLNT仮説が正しいとしているが、間違っている。
- NRCは作業員の被ばく限度を年間20mSvに下げ、ALARA原則を採用しようとしているようだ。多くの事業者には達成可能かもしれないが、達成できない事業者もいる。いくつかの大規模なメディカル・センターの放射線技師/医師のうち、放射線治療カテーテル医師やインターベンショナル心臓内科医の吸収線量は最大で、年1〜5レム[10〜50mSv]ということもたびたびである。彼らは毎日人命を助ける仕事をしている。これらの高度な訓練を受けたスペシャリストに年の半分か4分の3しか働いてはいけないと、規制者である州に言わせるのか? ばかげている。その結果はただ、これらの人々がカテーテル室に行く前にフィルムバッジ[film badge放射線測定器]を机に置いて行くことになるだけだ。この行為は法律違反だが、機能不全の規制当局とその非科学的な被ばく限度によって、そうせざるを得なくなる。
「正確な放射線情報を求める科学者」から安倍首相への要望書
この請願者3人とも「正確な放射線情報を求める科学者」(Scientists for Accurate Radiation Information, S.A.R.I)という団体のメンバーである。この団体は福島原発事故後に結成されたようで、HPで調べたところ、100人の団体のようだ(注6)。その中に日本人が3人いる。そのうち、電力中央研究所の服部禎男氏は「放射能は健康に良い」と主張するホルミシス研究者とされる人物、放射線影響協会の金子正人氏は事故前からLNTモデルに基づいた疫学研究に異を唱えていたようだ(注7)。
この団体の10人の署名入りの要望書が安倍首相宛てに2013年10月2日付で出されている(注8)。何を安倍首相に要望しているかだけ紹介する。
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- LNTモデルを採用している日本では、社会に余計なコストを押し付け、便益よりも害をもたらしている。その例は、福島で避難の際に亡くなった人がおり、これはLNTモデルを基にした公衆の被ばく限度量から起きたことである。重要なことは福島では被ばくによる死亡も負傷者も出ていないし、現在の被ばく線量限度が2倍以上にならない限り、被害は起きない。
- LNTモデルが害しかもたらさないことを日本で広め、避難者たちを帰還させることを決定し、現存の問題に対しコスト効率の良い解決方法を見つけることを欲する。
心配すべき深刻な汚染の新情報
山下氏の論文が発表された直後の2016年6月に学会発表された研究結果は、被ばくとその健康影響を心配するのが当たり前だと思わせる。日本では簡単な記事だったが、海外では大きく取り上げられたので、その一つを紹介する。
日本の記事では、見出しと内容から焦点の違いがわかる。共同通信の記事(2016年6月27日)は「セシウム89%はガラス粒子—原発事故で東京への降下物分析—」と題され、「セシウムは雨などで洗い流されると考えられていたが、直接的に除去する方法でなければ環境に存在し続ける可能性があるという。健康への影響について考え直す必要があるとしている」(注9)。朝日新聞の記事「福島第一のセシウム、コンクリと反応か、九大など研究」(6月27日)では「溶け落ちた核燃料が高温で格納容器の底のコンクリートと反応してできた」「放射性物質の濃度は1グラムあたり4400億ベクレルだった」(注10)と報道している。両方の記事を読んで初めて、濃度について、核燃料が格納容器を突き破っている可能性を示唆していること、東京にまで飛んだ高濃度のガラス状粒子が存在し続け、健康被害が心配されることだ。
一方、アメリカ科学振興協会(AAAS)のオンライン・ニュースでは「福島から東京に降り注いだ放射性セシウムはガラス状微粒子に蓄積」(6月26日 注11)という見出しで、日本の記事よりずっと詳しく報道されている。
特に東京の人々が知るべきことは、ガラスに閉じ込められたセシウム濃度が福島の一般的な土壌に含まれるセシウム濃度の107倍〜108倍だということだ。フランスの研究者は「人体に吸引されるセシウム微粒子による吸引線量に関しても、われわれの評価方法に変更を迫るかもしれません。じっさい、不溶性セシウム粒子の生物学的半減期は、可溶性セシウムの生物学的半減期よりも大幅に長いのかもしれないのです」とコメントしている。
ところが、この1か月後に原子力規制委員会長の田中俊一委員長は、食品基準値を1,000ベクレルにあげるべきだと福島県内の講演会(2016年7月28日)で主張したという。「国際的には1000ベクレルが基準」だと言い、現行の1キロあたり100べクレルは「外国人に笑われるような変な基準だ」(注12)と言ったと報道されたが、世界は2016年8月9日現在でも、福島県産だけでなく、広く東北・関東・甲信越・中部地方産の日本食品を輸入停止や証明書要求、または、検査強化したままだ(注13)。この「世界」には北・南米、EU28か国と他のヨーロッパの国々、ロシア、中近東、アフリカ、東南・東アジア、太平洋諸国などが含まれている。これはもちろん、100Bq/kgの現行規制値にもかかわらずということだろう。世界の基準が1000Bq/kgだというのが虚偽・曲解だと8—5—1, 8—5—2で紹介したが、規制委員長が知らないはずはないし、10倍の汚染度許容というようなニュースが世界に流れれば、「外国人に笑われる」だけでなく、日本食品関連の産業や観光業など、ダメージを受けることが予想される。しかも、人口の多い東京で見つかったセシウム微粒子の89%がガラス状で、体内に入ったら深刻な健康被害をもたらす可能性があるという研究結果が発表された1月後の発言である。山下俊一氏らと田中俊一氏の発言のタイミングと内容に隠された企みは何だろう。
注1:Shunichi Yamashita “Adolescent Thyroid Cancer After the Fukushima Nuclear Power Plant Accident: Mass Screening Effect or a Real Increase?”, ASCO Annual Meeting, May 26, 2016
https://am.asco.org/adolescent-thyroid-cancer-after-fukushima-nuclear-power-plant-accident-mass-screening-effect-or-real注2:「帰還困難区域に『復興拠点』 自民が提言案」NHK NEWS WEB, 2016年8月17日
http://www3.nhk.or.jp/news/genpatsu-fukushima/20160817/0817_kyoten.html注3:John R. Emshwiller and Gary Fields「少量の放射線はそれほど悪いのか:『発がんリスク仮説』見直しの動き」THE WALL STREET JOURNAL, 2016年8月15日
http://jp.wsj.com/articles/SB10153442616204504109704582252471670341942注4:”Nuclear Regulatory Commission, Linear No-Threshold Model and Standards for Protection Against Radiation”, June 16, 2015
http://www.nrc.gov/docs/ML1511/ML15114A292.pdf注5:Carol s. Marcus, Letter to Secreatry, U.S. Nuclear Regulatory Commission, March 19, 2015
http://www.nrc.gov/docs/ML1507/ML15079A256.pdf注6:Scientists for Accurate Radiation Information (S.A.R.I)のメンバー紹介ページ。
http://radiationeffects.org/members/注7:金子正人「疫学研究の現状としき値問題—放射線リスクはLNTモデル?—」(ESI-NEWS, Vol.25 No.3, 2007の転載)
http://anshin-kagaku.news.coocan.jp/sub070713kaneko.html注8:書簡の題名「福島に関する低線量の電離放射線の潜在的健康影響の評価の基礎となる科学」(Scientific bases for assessing potential health effects of low-dose ionizing radiation related to Fukushima), 02.10.2013
http://radiationeffects.org/wp-content/uploads/2014/01/SARI_Letter_Abe-Fukushima1.pdf注9:「セシウム89%はガラス粒子—原発事故で東京への降下物分析—」『共同通信47 NEWS』2016年6月27日
http://this.kiji.is/120014225440391169注10:「福島第一のセシウム、コンクリと反応か、九大など研究」『朝日新聞』2016年6月27日
http://digital.asahi.com/articles/ASJ6V35H4J6VULBJ001.html注11:”Radioactive cesium fallout on Tokyo from Fukushima concentrated in glass microparticles”, EurekAlert! Science News, 26 June 2016/08/18
http://www.eurekalert.org/pub_releases/2016-06/gc-rcf062316.php
この記事の日本語訳が「原子力発電_原爆の子」ブログに掲載されているので、その訳を引用させていただいた。
http://besobernow-yuima.blogspot.jp/2016/06/2016.html注12:「放射性物質濃度 政府基準を規制委田中氏批判」『河北新報』2016年7月29日
http://this.kiji.is/131636919436492802注13:農林水産省「諸外国・地域の規制措置(平成28年8月9日現在)」
http://www.maff.go.jp/j/export/e_info/pdf/kisei_all_160809.pdf