スターングラス博士の訃報
1976年アメリカ議会セミナーの中心的なパネリストの一人、アーネスト・スターングラス博士が2015年2月12日に亡くなったと、『ニューヨーク・タイムズ』(2015年2月20日 注1)が伝えた。「アーネスト・スターングラス、物理学者・核の批判者、91歳で亡くなる」という非常に長い追悼記事を翻訳紹介する。
アーネストJ. スターングラスがニューヨーク州イサカの自宅で2月12日に亡くなりました。91歳でした。彼の放射線物理学の研究は重要な技術の進歩の基礎となり、彼は後に核兵器反対の著名人となりました。子息のダニエルによると、死因は心不全でした。
スターングラス博士はそのキャリアの初期に、エレクトロンと金属の基本的な相互作用を解明し、それは暗い場所でも撮影できるカメラに発展しました。NASAがその技術をアポロ11号のテレビカメラに採用し、月面着陸したニール・アームストロングのビデオを映したのです。
博士は後に医療用X線の写真フィルムの代わりに固体電子センサーを使う技術のパイオニアになりました。これらの成功の前、1947年に、博士がまだ大学を出たばかりで、ワシントンの国防省海軍武器研究所で働き始めた頃、後の彼を作ったとも言える、アルバート・アインシュタインとの出会いがありました。
スターングラス博士は金属片に電子ビームを当てる実験をしていました。ビームは、二次的電子放出と呼ばれる過程で、他の電子を放出させました。軍は、暗い場所でものを見えるようにするために、このプロセスが使えると考えました。スターングラス博士はアインシュタインに手紙を書きました。このような電子放出を説明する従来の理論に挑戦して、自分の考えを述べたのです。アインシュタインはスターングラス博士をニュージャージー州プリンストンの自宅に招待し、二人は半日、語りあいました。スターングラス博士が後に語ったところによると、アインシュタインは博士が理論物理学を追及することに反対し、思いもしないアドバイスをしたといいます。「学校に行くのはよしなさい。学校はありとあらゆるオリジナルな考えを奪い、潰してしまう。大学院に行ってはいけない」。二人は文通を続け、アインシュタインは博士が電子の研究を続けるよう励ましました。
実際は、スターングラス博士は学校に戻ったのですが、アインシュタインのアドバイスに従って、実用的な研究をしました。1953年にコーネル大学から基礎工学の博士号を授与された後、ウエスティングハウス研究所に入り、そこで二次電子放出の研究をして、それがアポロ11号のビデオ・カメラに使われた高感度のカメラ電子管になったのです。
1960年代にスターングラス博士と他の研究者たちは医療X線は胎児に害を与えると結論付けました。X線を受けた母親から生まれた赤ん坊の死亡率と小児白血病の率が高いことを発見しました。この発見は、彼が地上核実験禁止条約に賛成する立場で、上院委員会ヒヤリングで証言することにつながっていきます。核実験による放射性物質フォールアウトは同じく被害を起こすと博士は証言しました。上院は条約を批准しました。息子のダニエル・スターングラスは「父はこれが自分の人生で成し遂げた最も大きなことの一つだと感じていました」と言います。
1967年にスターングラス博士はウエスティングハウスを退職して、ピッツバーグ大学医学部の放射線物理学教授になります。同じ年に原子力委員会は核兵器を平和目的に使うというプロジェクト・ケッチ(Project Ketch)を提案しました。これは天然ガスを備蓄する穴を作るために、ペンシルバニア州中央で原爆を地下爆発させるというものでした。1981年の本『核の証言者たち』(レスリー・フリーマン著)でスターングラス博士は、友人だった『ピッツバーグ・ポスト・ガゼット』紙の編集者からプロジェクト・ケッチのことを聞いて、「この人たちは気が狂っている。酪農の中心地だから、何百万キュリー[1キュリーは370億ベクレル]の放射性ヨウ素がニューイングランドまで牛乳を汚染し、ニューヨーク、ワシントン、フィラデルフィアまで汚染される。まったく狂気だ」とその友人に話したそうです。
スターングラス博士はプロジェクト・ケッチに反対する意見記事を書き、核兵器と原子力に対する批評家として活躍するようになります。論争となった彼の主張は、乳幼児の死亡率が20年もの間上昇している理由の半分を占めるのが核実験によるフォールアウトだというものでした。1950年からアメリカだけで400,000人もの赤ん坊が死んだのは核実験のフォールアウトのせいだと言いました。
「父はこの相関関係が存在するととても強く信じていました。この影響は本当なのだと」と息子のダニエル・スターングラスは言います。しかし、他の科学者たちはこの推論の多くの点と彼の結論に疑問を持ちました。
1979年のペンシルベニア州スリーマイル・アイランド原発の部分的メルトダウンの後、スターングラス博士は原発から2マイル[3.2km]離れたハリスバーグ(Harrisburg)飛行場で放射線レベルを計測し、正常値の15倍も高くなっていることを発見しました。そして「これが核実験のフォールアウトの主要なパターンだ」とAP通信に伝えました。
批評家たちはスターングラス博士が不安を煽ると非難しました。『ニューヨークタイムズ』の社説は、「長年原子力発電に反対する活動家のアーネスト・スターングラス博士は、データを誤って処理して健康被害を示したと、中立的な保健機関から非難された。核のおとぎ話の中にも『オオカミが来た』と騒ぐ人がいる」と書きました。
ハーバード大学のノーベル賞生物学者、ジョージ・ウォルド(George Wald: 1906-1997 注2)はスターングラス博士の1981年の著書『隠されたフォールアウト:広島からスリーマイル・アイランドまでの低レベル放射線』(Secret Fallout: Low-Level Radiation From Hiroshima to Three Mile Island)の序文で、この批判について述べています。「本書の中で、私が時には博士がちょっと行きすぎていると感じることがあった。しかし、確信は持てなかった。博士が言っていることを注意深く読み直すと、行き過ぎだった[原文強調]。真実は人が一度この道に踏み出すと、どこで止まるか、あるいは止まるべきなのか知るのは難しいということだ。基本的な問題では、スターングラスは非常に強い証拠を持って取り組んでいる」。
1980年代にスターングラス博士はピッツバーグ大学で、ドナルド・サーシン(Donald Sashin 注3)やその他の同僚とともに、医療用X線を記録するのに、写真フィルムではなく、固体センサーを使う方法を考案しました。センサーはフィルムよりもずっと敏感で、放射線量を低くするのです。画像をデジタル化して、コンピューター・アルゴリズムで操作し、今やフォトショップなどで画像編集プログラムでは普通のことになっているものです。これは医者が腫瘍やその他の詳細をもっと簡単に見るために、コントラストを強めたり簡単にできます。
アーネスト・スターングラスは1923年9月24日にベルリンで生まれました。両親はともに医師で、ナチスのSS(武装親衛隊)が父親の診療所があるユダヤ人街を包囲したとき、父親の患者である親衛隊の一人が帰宅を許してくれ、家族はその後すぐにドイツを出て、1938年にニューヨークに移住しました。
博士はコーネル大学で電気工学を専攻し、1944年に卒業した後、海軍で兵役につき、国防省海軍武器研究所で働き始めました。1948年にコーネル大学に戻り、大学院で勉強しました。
最初の結婚は離婚に終わりました。2番目の妻のマリリンは2004年に亡くなりました。スターングラス博士には息子のほかに、娘のスーザン・スターングラス・ノーブル(Susan Sternglass Noble)と4人の孫がいます。
1983年にピッツバーグ大学に戻ると、スターングラス博士はさらなるプロジェクトを探しました。核実験の時代に科学者たちは乳歯のストロンチウム90のレベルを測ることで、放射線の広がりを追跡しました。ストロンチウム90は核分裂反応によって生じる放射性元素で、カルシウムのような化学的性質を持っています。1950年代に核実験が最高潮の時に、この[乳歯の]レベルが上昇していることを発見しました。
スターングラス博士と統計学者のジェイ・グールド(Jay Gould: 1915-2005 注4)は、原発近くに住んでいる子供たちを調べる同じような調査をしようと思いつきました。この研究は「放射線と公衆衛生プロジェクト(Radiation and Public Health Project 注5)」の設立に発展し、原発の近くに住む子どもたちの乳歯から高いレベルのストロンチウムを発見することになりました。
注1:Kenneth Chang “Ernest Sternglass, Physicist and Nuclear Critic, Dies at 91”, The New York Times, Feb. 20, 2015
http://www.nytimes.com/2015/02/21/science/ernest-sternglass-physicist-and-nuclear-critic-dies-at-91.html注2:ジョージ・ウォルドは1967年にノーベル生理学賞を受賞した。ノーベル財団のホームページに略歴が掲載されている。
http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/1967/wald-bio.html注3:ドナルド・サーシン博士はピッツバーグ大学放射線学部所属のようで、ホームページに研究論文などが掲載されている。
http://radiology.pitt.edu/?faculty/faculty-detail.html?facID=528注4:ジェイ・グールド(Jay M. Gould: 1915-2005)の著書で日本語訳のものは『低線量放射線の脅威』(今井清一他訳、鳥影社、2013)などがある。
注5:Radiation and Public Health Projectのホームページ:
http://radiation.org