6-14-5 訳者解説:原子力委員会の裏工作

調査委員会で証言した原子力委員会側の証言者たちが、線量の元データを再分析した結果、原発周辺に高レベルの放射性物質は存在しなかったと主張した背景に、原子力委員会の裏工作があったことが発覚し、1年後に報道されました。

情報開示請求から原子力委員会の裏工作が判明

  シャップ調査委員会で原子力委員会側の証言者が、元データの再分析の結果、「原発周辺には高レベルの放射性物質は存在しなかった」と主張した(6—14—4参照)背景には、シッピングポート原発で何も起こらなかったと市民を信じ込ませるための裏工作があった。

 その全容は、1973年7月31日に調査委員会が行われてから、大分たつまで表に出てこなかった。原子力委員会がビーバー・ヴァリー原発1号炉と2号炉の運転認可を出した後、1974年6月7日に原子力委員会の裏工作の全容を示す記事が『ビーバー郡タイムズ』(Beaver County Times)に掲載された。調査報道専門のフリーランス・ジャーナリスト、ジョエル・グリフィス(Joel Griffiths)が様々な事実をまとめた記事だった。

 全く予期しない形で、裏工作の事実が明らかにされた。シッピングポートの新しい原子炉の認可のための公聴会用に、ピッツバーグ市付きの弁護士ブランドンが通常の情報開示請求をした結果だった。

 これは、アリクイッパのシャップ調査委員会の2,3ヶ月後のことだった。ブランドンは原子力委員会のファイルに存在する、シッピングポートの議論に関するすべての内部連絡通信と手紙類のコピーを要求した。そして、1973年秋のある日、認可のための公聴会が始まるちょっと前に、ブランドンの事務所に大きな封筒が届いた。どんな裏工作があったかを示す内部の連絡通信、手紙、その他の文書が入っていた。

原子力委員会は高線量放射能が原発由来だと知っていた

 1973年初め、原子力委員会の地球科学部門(Earth Science Branch)が内部調査を行い、「この放射線は中国の核実験によるものとは全く考えられない。九分どおり、地域産か、サンプリング作業が不適切だったかであろう」という結論を出していた。グリフィスは決定的な発見だと書いている。この地域にはこの量の放射線を発するものは原発以外にないので、「地域産」というのはシッピングポートを婉曲的に指していた。したがって、放射線が本当に存在したなら、シッピングポートが犯罪にかかわったことは明らかだった。他の可能性としては、放射線が最初から存在しなかったことだろう。

裏工作の経緯

線量を実際より高いと分析した?:
原子力委員会側の言い分は、ニュークリア・サービス社(N.U.S.)がビーバー・ヴァリーの土壌、ミルクその他のサンプルの放射線測定の際に、しくじったのかもしれない、線量を実際より高く読んだのかもしれないというものだった。そうであれば、N.U.S.が無能だったことを意味する。

初期試料の再探索:
この問題を解決するために、N.U.S.の科学者が1970年と1971年に採集したサンプルを探して、再分析し、本当に放射線が存在したか確かめる必要があった。N.U.S.は1973年2月にロックヴィル本部を探索したが、会社の規則で分析済みのサンプルは1年以上保管しないことになっていて、何も見つけられなかった。

線量分析者と原子力委員会の対立:
N.U.S.と原子力委員会、保健機関との間に鋭い意見の相違が生まれた。放射線がシッピングポート原発のせいか、N.U.S.の無能のせいかの選択を迫られ、原子力委員会と保健機関は無能の方を選び、NUSの報告書を非難し始めた。

核実験のせいにする選択:
N.U.S.は難しい立場に立たされた。雇用者であるデューケイン電力会社と原子力委員会をはりつけにせずに、自分たちの評判を維持することができるとしたら、放射線がシッピングポート以外から来たと証明しなければならなかった。そこで、[シッピングポート由来という]あらゆる証拠があるにもかかわらず、N.U.S.は[核実験による]放射性降下物を選んだ。

N.U.S.の再調査報告書:
1973年3月、N.U.S.はシッピングポートの状況に関して報告書の草案を完成した。最初の報告書の高い放射線量は維持するが、それは特に異常ではなく、多分中国の核実験のせいだとした。

原子力委員会保健安全研究所長の怒り:
この草稿は原子力委員会の「保健安全研究所」長のジョン・ハーリー博士(John Harley)に送られた。彼はシッピングポート事件の調査の原子力委員会側の中心人物で、この放射線量が核実験の放射性降下物では説明できないことをわかっていた。原子力委員会の内部資料(1973年3月8日)によると、ハーリーは草稿について、「この組織[N.U.S.]が無能だと示すに十分だ。スタッフはこの分野に精通しておらず、データ評価その他に無能だとよくわかる」と怒り狂っていた。N.U.S.の無能さは核実験の放射性降下物論を証明しようとしたこと、そして「調査は確かに大きな計算間違いだったか、数字のごまかしさえ起こったようだ。状況は非常に深刻だと思う」とハーリーは書いていた。

深刻な事態:
デューケイン電力会社の広告によると、原発が「市民の健康に100%安全」であるように、N.U.S.が重要な仕事をする「傑出した科学者」集団だとみなされていたからだ。もっと深刻なのは、N.U.S.がすでに34基の他の原発の安全性研究も行っており、その多くが運転開始していたことだ。この報告書草稿を作成した2人を含め、N.U.S.スタッフは優れた信頼できる科学者だということと、ハーリー博士の無能という批判とは相容れなかった。原子力委員会と環境保護局と一体のようなN.U.S.はなぜ数字のごまかしをしたのだろうか。

原子力委員会の結論:
ハーリー博士の怒りから2ヶ月ほどたってから、原子力委員会は最終報告書を提出し、高線量はN.U.S.のミスだったと述べた。報告書はN.U.S.が眼を通す前に、ピッツバーグの新聞社に手渡された。

N.U.S.の抗議:
その後まもなく、1973年6月7日に、N.U.S.の社長、チャールズ・ジョーンズ(Charles Jones)が原子力委員会に電話をし、放射能は確かに存在したこと、N.U.S.の方法には問題はなかったことを断固として言った。電話の相手は、原子力委員会の代表で、安全運転部長のマーティン・バイルズ(Martin Biles)博士だった。ジョーンズは、メディアでよくないことを書かれれば会社がダメージを被るので、何とかすべきだと言い、6月20日に原子力委員会、電力会社の弁護士とで話し合いが持たれた。

裏工作の合意:
その後N.U.S.が、ビーバー・ヴァリーの初期の試料がみつかったので、放射能が実際に存在したのか確かめられると言った。原子力委員会は新たに発見された試料の信憑性を何の疑念も抱かずに受け入れた。試料は原子力委員会、環境保護局、独立系民間研究所、そしてN.U.S.で再分析された。N.U.S.の再分析の結果によって、会社の能力が試されることになった。

再分析結果:
再分析の結果、放射能がないとされた。試料のいくつかは、最初の分析より20倍も低いとされたが、N.U.S.は今回は間違っていないということだった。これで全員が救われた。

記者会見での説明:
N.U.S.がメディアに説明しなければいけなかったのは、1971年になぜ20倍も高い数値を出したかということだ。会社はラボの記録を調べ、新たな発見をした。1971年を通して、分析方法にシステム・エラーがあったために、高い数値が出てしまったという。これで一件落着だった。N.U.S.が担当したその他34基の原子炉の安全性は、不問にされた。

真実を訴え続けたラボ責任者の解雇:
N.U.S.のラボの責任者他数人が解雇された。彼らは初期の分析数値に間違いがないと主張し続けていたのだ。N.U.S.はその後、原発が「市民の健康に100%安心安全」となるよう業務を続けた。

未来への希望

 シッピングポート事件の詳細を述べた後、スターングラス博士は次のように締めくくった。同時に未来への希望も見えてきた。

 シッピングポートが1974年初めに発電機の中で水素ガスの爆発が起こって停止すると、アリクィッパの乳児死亡率が1976年に最低記録の1000人の出生数につき11.3人の乳児死亡数だった。生命と自由の絶対的人権にむとんちゃくな遠い国の政府[訳者注:文脈からイギリスと理解]の恣意的な権力への革命をアメリカが起こしてから3世紀目に入る今、市民がこれらの事実を知ってくれさえすれば、がんの上昇とまだ生まれていない子どもへの被害という悲劇的な流れをやがて逆方向に向かわせられるかもしれない。

出典:『隠されたフォールアウト(放射性降下物)——広島からスリーマイル・アイランドまでの低レベル放射線——』
15章「シッピングポートの放射性降下物」
(Earnest Sternglass, Secret Fallout: Low-Level Radiation from Hiroshima to Three Mile Island, 1981)
http://www.ratical.org/radiation/SecretFallout/

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