15-2:被ばくの重要証人が次々と逝く:ヤブロコフ博士の訃報

本サイトで度々引用してきた『調査報告 チェルノブイリ被害の全貌』の編著者アレクセイ・ヤブロコフ博士が亡くなった。放射能被害はない、安全だから帰還せよと繰り返す日本政府と原発推進勢力、そして、福島県以外は対策すら考慮されない日本の現状で、ヤブロコフ博士を含めたチェルノブイリの良心的専門家たちは、暗い荒海の彼方に光る灯台のような存在だった。

ヤブロコフ博士の訃報(1)

 2017年1月11日付の『Sputnik日本』に「日本でも著名なロシア人生物学者、アレクセイ・ヤブロコフ氏が死去」(注1)と題する記事が掲載された。「動物学、生態学、放射線生物学、自然保護の普及に努め」、「ソ連で『グリンピース』を創始、組織した」という。「原発に反対する姿勢が讃えられ、2002年には国際的な賞『核のない世界をめざして』が授与された。福島第1原発事故後はチェルノブイリ原発との比較を行い、福島の被害の危険性を告発している」と結んでいる。

ヤブロコフ博士の訃報(2)

 オスロに本部があり、ベルギーとロシアにも支部を持つ環境NPOのベロナ基金(Bellona Foundation)がヤブロコフ博士の訃報「アレクセイ・ヤブロコフ、ロシアの環境保護の祖父、83歳で死去」(2017年1月10日、注2)と報じているが、とてもいい記事なので、抄訳する。

 ロシアのエコロジーの傑出した祖父で、ロシアが冷戦時代に北極に核のゴミ投棄をしていたことをベロナとともに暴いたアレクセイ・ヤブロコフが長い闘病の末にロシアで亡くなった。ロシア科学アカデミーの委員であり、影響力の大きな本『調査報告 チェルノブイリ被害の全貌』(原題の訳は「チェルノブイリ—大惨事が人と環境に及ぼす被害」、2007年刊)の中心著者である。事故に関する6,000の研究調査論文を分析した結果、この本が出した結論は、985,000人が事故によって早死にするという、現在に至るまで最も大胆な数字を示した。

 30年にわたってヤブロコフと親交があったベロナの会長、フレデリック・ヘイグは以下のように述べている。「彼はインスピレーションであり、偉大な科学者であり、世界で最も優れた環境保護のヒーローだった。彼のような冷静で、鋭敏な頭脳の持ち主と知り会え、一緒に仕事ができたことは宝物として記憶に留めなければならない」。

 ヤブロコフは1989年〜1992年にボリス・エルツィン大統領の環境問題アドバイザーだった時に厳しい白書を出版した。北極海に原子力潜水艦を沈め、軍事用原子炉を投棄した結果、放射能の脅威が高まったことを詳細に指摘したのである。ヤブロコフの白書は環境開示性の時代を先取りし、それはロシアの200もの原子力潜水艦の廃炉に対して、国際社会が3000万ドルも援助することに寄与した。また、軍事的核のゴミの時代を安全にすることにつながっていく。白書の結論は1992年のベロナ報告書が指摘した、ロシア海軍による北極海への核のゴミ廃棄問題とぴったり一致していた。ヘイグはヤブロコフが「ロシアで権力的地位にある人で、我々の結論を支持する勇気を持った初めての人物」だという。

 ベロナとのパートナーシップは1995年に重要な意味を持つことになった。ベロナのアレクサンダー・ニキティンがベロナの報告書に書いた北極海における核の危険性という結論を理由に、反逆罪で起訴された。この報告書は『ロシアの北方艦隊:核汚染の源』(1996)と題されている。果てしない公判の末にニキティンは無罪を勝ち取るが、この公判の間、ヤブロコフの冷静で、ロシア憲法に関する広範囲の知識がニキティンの弁護を導き、無罪に至ったとヘイグは言う。2000年にロシア最高裁はニキティンを無罪にしたが、ロシアで反逆罪で闘った者で勝訴したのは彼が初めてであった。

 ヤブロコフはEU、アメリカ、ノルウェー、そしてオスロにおけるベロナの報告の指導者だった。チェルノブイリ惨事30周年にオスロで行われた会議で、彼は2007年の本(『調査報告 チェルノブイリ被害の全貌』)を発表した。彼はまたロシアにおける環境活動家の擁護者で、2014年にサンクトペテルブルグで行われたベロナの会議では、環境団体は自分たちに圧力を加える政府当局者のリストを出版すべきだ、「環境問題活動のために逮捕されたり、国外追放された同胞を援護しなければならない」とヤブロコフは会議で述べた。

ヤブロコフ博士の訃報(3)

 アメリカの政治雑誌『カウンターパンチ』に掲載された訃報記事は、福島事故後に日本を訪れたイギリスの科学者、クリス・バズビー博士による「チェルノブイリの科学的ヒーロー:アレクセイ・ヤブロコフ、真実を語る勇気を持った男」(注3)と題されている。以下に抄訳する。

 私がアレクセイに初めて会ったのは1996年、オックスフォードだった。私の本『死の翼:核公害と健康』(Wings of Death: Nuclear Pollution and Human Health)が出版されて間もなくだったが、彼はすでに読んでいた。その時すぐに、そして、それ以来、一緒に仕事をしてきて次第に明らかになったのは、彼も私同様、放射線と健康の問題は基本的に政治問題で、科学は二次的だという認識だったことだ。

 私たち二人とも、1998年にブリュッセルのヨーロッパ議会の緑グループに独立系科学者として招かれ、ユーラトム[欧州原子力共同体] 基本安全基準指針96/29の変更についてアドバイスするよう求められた。この汎ヨーロッパ法は放射性廃棄物を希釈して商品にすることを認めていた。私たちは緑グループに、この法律を阻止するよう提言した。ユーラトムは議会によってブロックされることはないため、緑グループは阻止できなかったが、自殺条項を導入することにこぎつけた。最近、我々はそれを適用し始めている。

ECRR(欧州放射線リスク委員会)の設立を導いた決定的な言葉

 1998年の会議には、ICRP(国際放射線防護委員会)の科学事務局長のジャック・バレンタイン(Jack Valentin)も出席していた。ICRPがチェルノブイリの被害を無視していると、我々が批判すると、バレンタインは怒って言った。「ICRPは独立した組織だ。特別な地位などない。あなた方は好きなだけ、どんな[組織の]委員会の言うことも聞くことができる」。この提案で、アレクセイと私は前進方法をすぐに見つけた。インゲ・シュミッツ・フォイエルハッケ[ドイツ放射線防護協会]、アリス・スチュアート[本サイト9-1-2 参照]、そして後にモリー・スコット・カトー[Molly Scott Cato: 1963-, EU議会議員、イギリス緑グループ、ローハンプトン大学教授]と共に、私たちはオルタナティヴICRP[ICRPの代替]:欧州放射線リスク委員会(ECRR)を結成することにした。

 これはオルタナティヴ放射線リスク・モデルを必要としたので、その後の5年間、私たちはこの目的に向かって研究し、2003年に最初のECRRレポートを出版した。これによって、私たちは太陽1000個分の明るさで、核産業の地平線の上に立ったのである。

 アレクセイはこの報告書をロシア語に翻訳する作業を組織し、すぐにフランス語、日本語、スペイン語の翻訳も出た。アレクセイは本やECRR報告書をシリーズで出すことを提案し、私たちはすぐに取りかかった。チェルノブイリの影響に関する証拠をまとめた本『チェルノブイリ20年後:チェルノブイリ事故の健康被害』(Chernobyl 20 Years On: Health Effects of the Chernobyl Accident)が2006年に出版された。

科学的真実を追求する勇敢な戦士

 この頃には、マイケル・ミーチャー[Michael Meacher: 1939-2015,イギリス労働党議員、1997年から2003年まで環境大臣]を説得して、内部被ばく調査委員会(CERRIE)を設立した。そして、チェルノブイリの真実を暴露してもらうために、2004年にアレクセイとロシア科学アカデミーのエレナ・ブルラコバ[Elena Burlakova: 1934-, 生物学教授、低線量の放射線が人体に及ぼす影響を早くから研究]をオックスフォードに招いたが、彼らは真実を暴露してくれた。

 彼らの発表は核産業に影響されていたCERRIEの事務局によって最終報告書から除外されたが、私たちはマイノリティー・レポートに入れた。アレクセイは出版を続け、故ワシリー・ネステレンコ(そして[息子の]アレクセイ・ネステレンコ)と共に、今や有名になった「ニューヨーク科学アカデミーのチェルノブイリの本」[『調査報告 チェルノブイリ被害の全貌』]を出版した。これを核産業のボケたちがしつこく攻撃している。

 2001年に私はアレクセイとキエフで行われたWHOの会議に出席した。アレクセイは本当に怒っていた。この会議でのアレクセイの様子をチェルトコフのドキュメンタリー映画『真実はどこに』(注4)で見ることができる。この映画はキエフ会議で行われた偽証による背信行為[核産業側の科学者が事故の影響はないと証言したこと]を写している。これは強力な記録であり、見る価値のあるドキュメンタリー映画だ。

 2009年にアレクセイはECRRのレスボス会議に出席して、チェルノブイリの健康被害について発表した。私たちはそれを入れた会議プロシーディングを出版した。その後、私たちはジュネーブに行って、WHOの本部前でサンドイッチ・ボード[体の前後にぶら下げる広告]をつけて立つ「ヒポクラテスの見張番」(vigil、注5)活動に参加した。

あらゆる面でキャンペーンをする

 アレクセイとインゲと私が共通している点は、この戦いに勝つには、いくつかの分野で行動しなければいけないと認識していたことである。科学論文で、政治分野で、そして法律分野で。私たちに対する攻撃や、私たちに関する嘘がばらまかれるのを、勇気を持って受け止めなければならなかった。私たちはオルタナティヴ・リスク・モデルを開発し、訴訟事件に専門家として証言し、私の場合は法廷代理人として証言した。そして、これは効果があった。私たちそれぞれの行動は現在のインチキ組織の基礎を揺るがしたのである。私たちは究極的には勝利すると信じている。

 私がアレクセイに最後に会ったのは、2015年にモスクワで行われた彼の80歳の祝いの会だった。彼は私の航空券を払って招待してくれた。これはウォッカが燃料の科学会議だった。私以外の英語圏の発表者はティム・ムソー[Tim Mousseau,チェルノブイリと福島で鳥類への被害を調査研究]だった。そこにいたロシアの科学者たちはとても頭脳明晰で、しかも正直だった。CERRIEのような会議、最近ではスウェーデン王立科学アカデミー会議などで会う、放射線リスク分野の日和見野郎(time-serving bastards)や馬鹿ども(idiots)とは全く違っていた。

 しかし、今やみんな逝ってしまった。カール・モーガン、ジョン・ゴフマン、エド・ラドフォード、アーネスト・スターングラス、アリス・スチュアート、ロザリー・バーテル、そして今アレクセイ。みんな私の昔の仲間だった。彼らの代わりになる若い科学者はどこにいるのだろう? どこにもいない。

 アレクセイ・ヴラドミロヴィッチ(Alexey Vladimirovitch)、さようなら。勇敢で力強い存在だった。あらゆる点で偉大な男だった。彼は多分最後の戦士科学者だった。

 バズビー博士の追悼文の初出は『エコロジスト』とのことである。バズビー博士が最後にあげた科学者の名前の数々は、本サイトの「アメリカ議会セミナー」に登場した人々で、本当に今、これらの勇敢な科学者たちがいればと思わずにいられない。

ヤブロコフ博士の福島への提言

 福島第一原発事故直後に、ヤブロコフ博士の「福島での大惨事の影響を最小化する対策とは」(2011年4月15日 注6)と題した論説記事がモスクワ発の共同通信が報道している。その日本語訳を4日後には掲載してくださった「ピース・フィロソフィー・センター」(Peace Philosophy Centre)のサイトを参照していただきたい。事故直後に公表された文部科学省の公式データを分析したクリス・バズビー教授の結論:「今後50年間で、同原発から半径200キロメートル圏内で約40万人のがん患者が追加的に生じる可能性がある」という文章から始めている。その上で、ヤブロコフ博士は「過小評価を行うことは、過大な評価を行うよりも、国民と国家により大きな危険をもたらすことになる」と続けている。事故から1ヶ月後のこの警告は、事故から6年後の現在、現実のものとなりつつある。そして、政府と私たち市民が取るべき行動を5項目あげておられるが、どれも日本政府と原発推進科学者たちが拒否してきたように思える。その帰結は当然、健康被害の拡大だろう。

 福島原発事故後に私はヤブロコフ博士が入っているメーリング・リストに入れていただき、福島原発関連の論文をお知らせしたりしていた。重要な論文については、ヤブロコフ博士からお礼のメールをいただいたり、コメントをいただいたりした。最後まで放射能被害を心配する科学者の姿勢を貫かれた。

 バズビー博士の追悼文には福島原発事故後の私たちが知っておくべきことが多く含まれているので、後に詳しく追ってみたい。

注1:「日本でも著名なロシア人生物学者、アレクセイ・ヤブロコフ氏が死去」『Sputnic日本』2017年1月11日
https://jp.sputniknews.com/russia/201701113226795/

注2:Charles Digges, “Alexei Yablokov, grandfather of Russian environmentalism, dies at 83”, BELLONA, JANUARY 10, 2017
http://bellona.org/news/nuclear-issues/2017-01-alexei-yablokov-grandfather-of-russian-environmentalism-dies-at-83

注3:Chris Busby, “The Scientific Hero of Chernobyl: Alexey V. Yablokov, the Man Who Dared to Speak the Truth”, Counterpunch, January 17, 2017.
http://www.counterpunch.org/2017/01/17/the-scientific-hero-of-chernobyl-alexey-v-yablokov-the-man-who-dared-to-speak-the-truth/

注4:チェルトコフ監督の『真実はどこに?——WHOとIAEA 放射能汚染を巡って』(2004)の原題は「原子力の嘘」(Atomic Lies)で、その後「核論争」(Nuclear Controversies)に変わったとバズビー博士が語っている。このドキュメンタリー(フランス語)の英訳をバズビー博士も手伝ったそうだ。日本語字幕版はフランスの団体「エコー・エシャンジュ」と「りんご野」で行い、現在「りんご野」のサイトから視聴可。

http://ringono.com/2012/05/24/nuclearcontroversiesvideo/

 ヴラディーミル・チェルトコフ監督はチェルノブイリ作業員たちの健康被害を追ったドキュメンタリー映画『サクリファイス(犠牲)』(2003)も制作している。このビデオは日本に2006年頃に紹介された。福島原発事故前に柏崎刈羽原発の度重なる放射能漏れのあった頃だったことが、「柏崎刈羽原発と記録映画『サクリファイス』」という記事からわかる。『レイバーネット日本』、2007年7月21日

http://www.labornetjp.org/news/2007/1184942231500staff01

 また、ドキュメンタリー映画作成のためにベラルーシを取材した記録を本にした『チェルノブイリの犯罪——核の収容所』(上・下巻)の日本語訳が2015年に緑風出版から出ている。「チェルトコフ:チェルノブイリの犯罪を語る」というインタビュー映像も貴重である。フランス在住のジャーナリスト、コリン・コバヤシさんによるインタビュー(2013年1月2日)である。

http://echoechanges-echoechanges.blogspot.jp/2013/01/blog-post_1.html

 福島原発事故後しばらくすると、日本では放射能問題に対する関心がなくなったというニュースを聞いて、日本訪問をする意味はないと考えていたチェルトコフ監督は、80歳を過ぎて、自分が最後に貢献できるならと、2016年4月に日本各地で講演会や上映会を行った。チェルノブイリと福島について、長いインタビュー記事も出ている。

田中雅人「(核の神話:25)内部被曝を認めぬ主張、今も福島で」『朝日新聞DIGITAL』2016年4月28日

http://digital.asahi.com/articles/ASJ4T4T4NJ4TPTIL017.html

注5:「ヒポクラテスの見張番」はWHOに対して、核組織からの独立を求めるヨーロッパの市民団体IndependentWHOが定期的に行っている反核/原発の活動である。

http://independentwho.org/jp/グループ「independentwho」/

ホームページに「ヒポクラテスの見張番」をする故ヤブロコフ博士、ネステレンコ博士の写真が掲載されている。

http://independentwho.org/jp/

注6:「共同通信英語版の論説記事翻訳:チェルノブイリ専門家、『過小評価ではなく影響を最小化する対策を』」Peace Philosophy Centre, April 19, 2011

http://peacephilosophy.blogspot.jp/2011/04/kyodo-opinion-article-by-alexey.html

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