4-4 日本の疫学調査が低線量被ばくの影響を証明

スターングラス博士に低線量被ばくの影響を確信させた証拠を提供したのは、がんの疫学調査の先駆的研究者として世界的に知られていた瀬木博士でした。それをもとにスターングラス博士は核実験の時期とがん死亡率の上昇時期とを比較しています。


スターングラス さらに、最近日本から届いたばかりのデータがあります。日本の瀬木博士のデータによると、がん死亡率は1970-71年頃から始まって、日本中で方向転換を始め、突然上昇が止まり、前立腺がんや白血病、その他の潜伏期間が短いがんは下がっています。
 ある臓器がんの場合、いかに劇的な上昇率であるかお見せしましょう。膵臓がんですが、これは医学で治療が難しいがんです(図6)。ご覧のように、1930年から1945年の間、化学物質による公害が最悪状態の期間ですが、全く上昇していません。その後2,3年で1,200%も急増しています。

図をクリックすると拡大表示されます

図6 膵臓がん死亡率(日本男性)

図6 膵臓がん死亡率(日本男性)
図6 膵臓がん死亡率(日本男性)

縦軸左:死亡率/100,000人)  縦軸右:相対死亡率(1937年〜43年=100)
横軸:年(1940年〜1970年)
上昇線左側の事件(下から順に):第1回原子爆弾、第1回ソ連原爆実験、第1回ソ連水爆実験、第1回シリーズの最後、モラトリアム
上昇線右側の事件(下から順に):米ソ第2回素麦実験シリーズ[開始]、第1回中国原爆実験

 私たちが今まで非常に低い線量レベルの影響を過小評価していた可能性があると、この統計が示しているわけではないと言う人は、公衆衛生を無視しているということです。ここで指摘しておきたいのは、みなさんにはっきりと理解されていないと思える点です。現時点では確かに、診断用X線が人口全体に対する被ばく量の最大の線源でした。しかし、非常に低い線量の影響が思っていたより大きいという証拠が出てきた今、過去の医療用X線被ばくの研究では対応できない状況にあると思います。医療用X線は非常に高い線量率で行われるので、使用される線量では体への影響は小さいと考えられてきたわけです。この間違いがどうして起こったかをはっきりと示すグラフをお見せしたいと思います(図7省略)。3,4年前までこのような実験情報がなかったために、間違った理解をしていたのです。(中略)

 スコットや他の研究者たちは極端に低い線量で何が起こるか検証を始めました。この低線量の影響についての医学的データは全くありませんでした。この新たなデータをもとに考えられることは、この低線量で中心的な影響は細胞膜損傷です。(中略)私が1971年に本を執筆していた頃、バックグラウンド線量の影響を推定するベストな選択は直線型だと信じ切っていました。しかし、今、細胞膜損傷という新発見を前にして、そして、免疫過程と細胞膜との関係を考慮すると、生物学的損傷の最大の原因は医療被ばくだろうかと疑問に思わざるをえません。(中略)医療被ばくは高線量ですから、もっと研究が必要です。

 日本では1920年から1950年までがんの死亡率があがっていません。瀬木博士のデータが示すように、この期間、医療用X線が使われるようになっていました。つまり、医療用X線は線量が高いにもかかわらず、がんの原因としては幸いなことに最大のものではないことを示しています。

訳者解説:

瀬木三雄(1908-82)

 公衆衛生、がん疫学調査の先駆的な研究者として世界的に知られる。厚生省母子衛生課の初代課長時代、「母子手帳」を考案し、GHQとの交渉の末、1948(昭和23)年に制度化した。戦前の「妊産婦手帳」に対して、瀬木は母と子を別々に考えるべきではないという考え方のもとに、「母子手帳」になったという。同じ頃、GHQの申し入れによる死産届け出制度を瀬木が作成し、その後、GHQ人口動態届出係のフェルプスの提案で、死産届けは保健所経由にすれば、子どもの出生・死亡・死産が把握できるということで、出生・死亡届用紙の下に出生証明書と死亡診断書の記入欄を付けることにした。上部が戸籍系統、下部が公衆衛生系統で、それまで法務省管轄の戸籍系統しかなかったものを、厚生省管轄の公衆衛生系統を一緒にしたのはフェルプスと瀬木らの合作だという。

(出典:「平成11年度厚生科学研究費補助金採択課題(母子健康手帳の評価とさらなる活用に関する研究)分担研究「母子健康手帳の変遷に対する歴史的レビュー」分担研究者:巷野悟郎、福島正美、こどもの城小児保健部」
http://www.niph.go.jp/wadai/mhlw/1999/h1110002.pdf
(アクセスできない場合は、「母子健康手帳の変遷に対する歴史的レビュー」で検索してみてください)。

 1950(昭和25)年に東北大学医学部公衆衛生学講座が創設されて、瀬木が初代教授として就任し、21年間の在任中に、宮城県のがん登録制度、がん罹患率の公表、がん疫学研究班の組織など、日本における「発癌要因の疫学研究の先鞭」をつけたと評される。特に、臓器別の死亡率を国際比較することが困難な時代に、23カ国から直接データを入手し、日本を含めた『24カ国の癌死亡統計』を作成し、1960(昭和35)年に世界の関係者に送付したところ、「瀬木の名前が一気に世界に広まった」。
(出典:「東北大学医学部公衆衛生学教室の歴史」:
http://www.pbhealth.med.tohoku.ac.jp/content/4

印刷ページへ(別ウィンドウが開きます)