ロシア政府のIAEA批判
以下はロシア政府報告書(2006)の中に書かれている、IAEAにチェルノブイリ事故の評価と対応へのアドバイスを求めた経緯である(注1)。
● [ソ連政府の生涯350mSv案に対する]大衆の批判というプレッシャーのもとで、政府は国内の科学者が提案した35レム[350mSv]案を含め、公衆防護と放射線被害の除去の方策をIAEAの専門家に依頼した。この依頼は政府が国内の科学に対して完全に信用を失ったことを示した。ソビエト政府の依頼に応えて、国際社会は1989〜1990年に「国際チェルノブイリ・プロジェクト」を実施した。WHO/FAO/IAEA [FAO国連食糧農業機関]やその他の国際機関から世界を代表する300人の専門家が参加した。プロジェクトの目的は政策決定だけでなく、汚染地域の状況と住民の健康状況を把握することだった。防護方策の実施について議論する中で、世界を代表する科学者たちはソビエト政府のNCRPの概念が保守的すぎる[厳しすぎる]と考えた。当然ながら、この結論は避難/移住の提唱者にとって都合の悪いもので、チェルノブイリ・プロジェクトの結果は無視され始めた。
● チェルノブイリ・プロジェクトの最終結果が刊行される頃には、戦略的解決法が受け入れられ、法制化された。基本的にこの法律は妥協の産物で、年1mSvの追加被ばく線量については、特別な方策は採らない、年5mSvの線量は移住の条件とし、同時に線量ではなく、土壌汚染濃度をもとにした簡単なアプローチを採用することになった。したがって、ソビエト政府と連邦共和国は、世界の科学が決めた国際チェルノブイリ・プロジェクトの結論も国内の科学者も無視した法律を制定したのである。
● チェルノブイリ・プロジェクトの健康被害に関する結論は次のようなものだった。放射線によるものではないが、明らかな健康被害が調査した汚染地域にも対照として調査された地域にも見られた。いずれの健康被害も被ばくの影響とは直接的に関係ない。汚染地域外でも不安によるストレスが事故によってもたらされ、それはソビエト連邦で進行中の政治的・社会的・経済的変化によって悪化した。子どもたちの甲状腺被ばく推計によると、将来甲状腺がんが増加すると予想するのは可能だろう。将来の全がん増加は自然レベルと比べて非常に低いので、大規模かつ長期の疫学調査でも統計的に増加を示すことは不可能だろう。
● チェルノブイリ・プロジェクトの専門家の意見は、最近の移住数が減少していることは喜ばしい;移住による健康リスクは被ばくよりもずっと高いというものだった。
● ICRPの勧告は、年間10mSvの被ばく以下では、長引く被ばくに対する介入行為[除染、移住などの防護措置]は正当化できないというものだった。
● 1990年代には3共和国は数万の住民の移住を計画した。ロシア連邦のみが、汚染地域が4地域から17地域に、被害住民が20万人から260万人に増加した。1991年から住民保護と汚染地域の経済修復に関する法律「チェルノブイリ原子力発電所事故の結果、放射線被害を受けた住民の社会保障(social protection)」が成立した。同じような法律がベラルーシとウクライナでも成立した。
● 事故の5年目に非常に矛盾した状況が発生した。放射線量区域を設定したことにより、防護活動をかなり限定的な地域に集中することを可能にした。同時に、ソビエト最高権力機関は前代未聞の決定を下した。大量移住と数千の新たなサイト[居住区域]の建設である。
● その後に起こったソビエトの崩壊は、事故の被害者である市民に関する様々な責任が十分に果たされないことになった。実行すべき処置の大半は、経済危機によって、新国家[ベラルーシやウクライナを指す]が実行することを更に困難にした。これは大量移住案にも影響し、ロシア連邦の中では移住は実行されず、最も汚染が酷い地域の移住も果たされなかった。
訳者解説:チェルノブイリ事故直後の旧ソ連の科学者とIAEAの対応
事故直後のIAEAの対応がIAEAブルティンに掲載されているので、紹介する。
1986年5月5〜8日、事故から10日目、ソ連政府の要請で、IAEA事務総長のハンス・ブリックス、副事務総長、IAEA放射線安全部長のモリス・ローゼンがモスクワに飛び、ソ連担当者と話し合いをした後、チェルノブイリ原発上空をヘリコプターで視察した。視察に同行したのはソ連政府の「原子力利用委員会」委員長で、彼らの見解は「技術の進歩のためには多少の人命の犠牲と経済的損害は必要だ。それよりも深刻な損失は原子力に対する信頼が失われることだ」(注2)というものだった。
1986年8月25〜29日、事故から4ヶ月目に、チェルノブイリ原発事故について検討するIAEA主催の初の「国際専門家会議」がウィーンで開催され、ソ連政府を代表してV.レガソフ(Valery Legasov: 1936-1988, 物理化学者・ソ連科学アカデミー理事)が事故について報告した。提出された370頁の報告書の「付属書7」は「医学・生物学的問題」を扱い、住民が今後70年間に被曝する放射線量の予測を述べ、その予測線量から事故によるガン死の人数が24,000人とされた。
IAEA放射線安全部長のモリス・ローゼンとICRP委員長のダン・ベニンソンが26日の記者会見でこの予測死者数について説明し、広めていい数字だと述べたが、その翌日に、ベニンソンは5,100に、ローゼンは10,000に予測死者数を訂正した。その理由はソ連側の予測が最悪の状況を想定した数字だと会議後の秘密会談でわかり、西欧では被曝線量は普通平均値をとるので訂正したという。ソ連側は「健康被害の最大値をもとにするのが慎重かつ賢明なやり方だ」と言ったと、ニューヨークタイムズが詳しく報道している(注3)。
この報道で注目すべきは、予測死者数に関する論争が表しているのが、低線量を長期間被曝する危険性をめぐる専門家の間の意見の対立だと述べて「長期間の低線量被曝の危険性」に言及したことである。これは現在の日本の被曝に関する論争と同じである。この会議で、ローゼンは「もし、このような事故が毎年起こるとしても、原子力エネルギーはやはり魅力を持つものである」と述べた(注4)。
1986年秋(事故から半年後)、チェルノブイリ事故を受けてIAEAの最大関心事が何であったかをIAEA事務総長のハンス・ブリックスが「チェルノブイリ事故後の原子力の展望」と題した文章の中で、次のように述べている。事故後ヨーロッパ諸国で反原発のデモが起こり、メディアが市民に不必要な不安をかきたてていると非難している。そして、火力発電に頼ったら、日常的に環境を汚染し、がん患者が出るのだという(注5)。
レガソフは事故直後にヘリコプターで視察し、事故処理にあたったが、チェルノブイリ事故2周年目の翌日自殺したとされる。彼の死亡を伝えるAP通信(ニューヨーク・タイムズ紙掲載)は不思議な伝え方をしている(注6)。
タス通信もテレビニュースも死因や亡くなった場所について伝えず、レガソフ氏がチェルノブイリ事故の調査中に危険なレベルの被ばくをしたのかもわからない。ソ連のリーダー、ミハイル・ゴルバチョフとその他の共産党首脳、科学者たちは死亡告知に署名したとタスは伝えた。
火曜日のチェルノブイリ事故2周年に関するソ連の多くの報道では、レガソフ氏の名前が出ることはなかった。水曜日のモスクワの記者会見でソ連の原子力専門家たちがチェルノブイリの現状を語る時も、彼は現れなかった。海外の原子力研究の仲間たちはチェルノブイリ事故の原因と影響について、レガソフがオープンに語ったことを賞賛した。ソ連が事故当初、情報を出すのが遅かったことと対照的だった。レガソフ氏はクルチャトフ原子力研究所の最初の副所長で、ソ連科学アカデミーの理事会メンバーだった。公式死亡記事は原子力発電に原子炉を使った彼の業績と不活性ガスに関する彼の仕事を評価した。
レガソフは「これを語るのは私の義務…」という未完の手記を残している。レガソフ自殺後の1988年5月20日に『プラウダ』紙に掲載された(注7)。当時、ベラルーシ核エネルギー研究所所長のにヴァシーリ・ネステレンコ(Vassilli Nesterenko: 1934-2008)博士は事故直後にレガソフに依頼されて、燃える原子炉の上空をヘリコプターで一緒に飛んで、鎮火方法を考えたという。ヘリコプター内部は毎時1000mSvという線量で、ネステレンコ博士が4号炉をよく見ようと身を乗り出したところを、家族のことを考えろとレガソフに首を掴まれた。顔面にセシウムによる火傷を負い、ヘリコプターに乗っていた人々の被曝量は1Svだろうという。パイロットたちは間もなく亡くなった。被ばくの影響で様々な症状に苦しみながら、ネステレンコ博士もレガソフも国民を守るために献身的な奔走をした。ネステレンコ博士が迫害を受けて、レガソフに助けを求めたこともあったが、モスクワではレガソフに対する迫害が始まり、自殺してしまったという。ネステレンコ博士は事故直後から、市民防護のために政府に避難や安定ヨウ素剤の配布を至急するよう要請し、市民を被ばくから守る努力をして、迫害にあう(注8)。
ネステレンコ博士自身の証言が映像に残っている。1998年スイスTSI製作のドキュメンタリー「チェルノブイリ原発事故 その10年後〜癒されぬ傷跡」(注9)がネットで視聴できるので、是非ご覧になっていただきたい。
また、2015年7月29日放映のNHKBSプレミアム・アナザーストーリーズ 運命の分岐点「チェルノブイリ原発事故 隠された“真実”」にレガソフの苦悩が描かれている。
注1:『チェルノブイリ事故の20年間—ロシアにおける被害除去の結果と問題 1986〜2006 ロシア政府報告書』(2006)、Ministry of the Russian Federation for Civil Defense, Emergencies, and Elimination of Consequences of Natural Disasters & Ministry of Health and Social Development of the Russian Federation (2006), S.K. Shoigu and L.A. Bolshov (eds), TWENTY YEARS OF THE CHERNOBYL ACCIDENT: Results and Problems in Eliminating Consequences in Russia 1986-2006 Russian National Report
http://chernobyl.undp.org/english/docs/rus_natrep_2006_eng.pdf注2:A. Petrosyants, “The Soviet Union and the Development of Nuclear Power”, IAEA BULLETIN, Autumn 1986, pp.7-8:
https://www.iaea.org/sites/default/files/publications/magazines/bulletin/bull28-3/28304790408.pdf注3: Stuart Diamond, “Chernobyl’s Toll in Future at Issue” (チェルノブイリの将来死者数が争点に), The New York Times, August 29, 1986:
http://www.nytimes.com/1986/08/29/world/chernobyl-s-toll-in-future-at-issue.html注4:ベラ・ベルベオーク/ロジェ・ベルベオーク、桜井醇児訳『チェルノブイリの惨事』(1993)緑風出版、2011、p.22.
注5:Hans Blix “The post-Chernobyl outlook for nuclear power”, IAEA BULLETIN, Autumn 1986, pp.9-10.
https://www.iaea.org/sites/default/files/28304780912.pdf注6:”Valery Legasov, 51, Chernobyl Investigator”, The New York Times, April 30, 1988
http://www.nytimes.com/1988/04/30/obituaries/valery-legasov-51-chernobyl-investigator.html注7: ヴァレリー・レガソフ「これを語るのは私の義務・・・」松岡信夫訳、『技術と人間』1988年7・8月号掲載。
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/tyt2004/annex-1.pdf注8:ヴラディーミル・チェルトコフ、中尾和美他(訳)『チェルノブイリの犯罪—核の収容所—』(原作出版年2006)、緑風出版、2015、pp.162-200.
注9:スイスTSI製作ドキュメンタリー「チェルノブイリ原発事故 その10年後〜癒されぬ傷跡」1998年
http://www.dailymotion.com/video/xneyj9_チェルノブイリ原発事故-その10年後-癒されぬ傷跡_news