飲用水に含まれる硝酸塩
13 (3)で紹介した論文「世界的に増加している甲状腺がん」に、放射線被ばくと並んでがんのリスク要因とされているいくつかの化学物質があげられた。筆頭の硝酸塩に関しては、チェルノブイリ事故直後から原発推進派が、健康被害の原因は放射線ではなく、井戸水に含まれる硝酸塩や栄養の欠如だと主張していたようで、1989年5月の第一回ソ連邦人民代議員大会で現在のベラルーシの病院の医師が「こうした要因は放射能の破壊的効果を強めることはあっても、変えるものではない」と訴えた(注1)。
生物学博士のエレーナ・ブルラコーワは政府に対して「被曝影響を強化させるファクター、つまりストレス・農薬・硝酸塩・亜硝酸塩・ビタミン欠乏症などの、考えうるあらゆる相乗的ファクターにも注意が払われていない」と訴えた(注2)。本サイトで紹介したIAEA主導の「国際チェルノブイリ・プロジェクト」でも、放射線の影響を否定するために、「風土病である甲状腺腫の予防のために子供たちに安定ヨウ素剤が投与されたが, それが小児甲状腺ガンの発生率を増加させた原因でありうる(中略). ベラルーシにおける小児甲状腺ガンの増加は, 化学肥料と殺虫剤で高度に汚染された中央アジアからベラルーシに持ち込まれた果物や野菜中の化学物質(硝酸塩など)が原因」(注3)という仮定を主張した。
ベラルーシ科学アカデミーのミハエル・マリコ博士は反論して「ベラルーシ, 特にゴメリ州やブレスト州においては, 土壌中に安定ヨウ素が欠乏しているため, チェルノブイリ事故のずっと以前から安定ヨウ素剤が使われてきた. それでも, チェルノブイリ事故以前には甲状腺ガンの増加などベラルーシでは観察されていなかった. 一方, ソ連中央アジアからの果物や野菜の量は, ベラルーシの多くの子供たちに行き渡るほど大量のものではなかった」(注3)と述べている。
硝酸塩摂取と甲状腺がんの関係について「世界的に増加している甲状腺がん」の研究者たちが引用している論文は「硝酸塩摂取と甲状腺がんと甲状腺疾患のリスク」(2010,注4)と「NIH-AAARP食事・健康研究における食品中の硝酸塩・亜硝酸塩と甲状腺がんリスク」(2011,注5)である。NIHは米国立衛生研究所、AARPは米退職者協会で、両機関による大規模研究だという。前者の論文はアメリカのアイオワ州の年配女性21,977人を対象に10年間硝酸塩を含む水道水を飲んだ結果、公共水道水中の硝酸塩濃度が高いほど、飲んだ年数が長いほど、甲状腺がんと甲状腺機能低下症の罹患率が高いことを発見したという。硝酸塩濃度は5年間に5mg/Lであった。しかし、甲状腺機能亢進症の増加は発見されなかったという。1950年代から使われ始めた化学肥料に硝酸塩が使われ、それが水道水と野菜に蓄積していることから甲状腺がんにつながっていると結論づけている。硝酸塩に暴露すると、乳幼児にメトヘモグロビン血症を起こすため、公共水道中の硝酸性窒素濃度は10mg/Lまでとされている。この研究結果からはその半分の濃度で甲状腺がんや甲状腺機能低下症が増加することを示しているのだろう。
放射線被ばくと硝酸塩摂取の複合汚染被害に関する論文:チェルノブイリ
チェルノブイリ事故による汚染地域の住民調査(注6)で、ブレスト地区の4.5歳から21歳までの264人の尿中ヨウ素を検査した結果、ヨード欠乏症は示していなかった。飲料水に含まれる硝酸塩の濃度によって、20mg/Lのストリン市、334mg/Lのオルマリー村、880mg/Lのオルシャニー村に分けて検査したところ、甲状腺過形成はストリン市の157人中3.8%、オルマリー村の79人中11.4%、オルシャニー村の28人中17.9%に見られた。結論として、被ばくに加えて飲料水中の硝酸塩の濃度が「甲状腺異常や唾液腺異常の進展を促す可能性」があるという。
一方、第一執筆者は同じで、その他の執筆/研究者が異なる論文「チェルノブイリ事故後のベラルーシにおける小児甲状腺がん罹患率に影響する主要因—飲料水中の硝酸塩が一因か?—」(2015,注7)がオープンアクセス論文として公表された。
題名から被ばくよりも硝酸塩の方が「主要因」だと示唆しているように読める。執筆者の中にMr 100mSvの山下俊一氏が入っているので、用心しながら読んでみた。同じ第一執筆者の同じテーマの論文なのに、大分方向性が違うように思う。それはこの研究の唯一の助成金が私たちの税金である科研費で、山下俊一氏を研究代表者とする国際研究グループに出されたことも大きく影響しているだろう。「チェルノブイリ原発事故後の放射線発がんリスク分子疫学調査研究」と「甲状腺がんの原因物質の同定に向けた挑戦的疫学調査研究」(注8)という題名の科研費で行われているようだ。
この論文の内容は「甲状腺がんと放射線被ばく」「甲状腺がんと超音波スクリーニング」「甲状腺がんとヨード欠乏」「甲状腺がんと硝酸塩汚染」の順番に調査結果を報告している。放射線被ばくについては医療被ばくと原発事故による被ばくと甲状腺がん増加の関係で、「甲状腺がんの増加と放射性ヨウ素131への被ばくとの因果関係は説得力ある証拠がある」と認めている。甲状腺がんの増加はスクリーニング検査をしたからだという論については、事故後4〜5年目に行われた原子力推進のIAEAやその従属機関(放射線被害についての調査はIAEAに従うという契約を交わしている意味で)のWHOなどの調査結果では、甲状腺がんは見つからなかった。結論は「1990〜2013年までの様々な機関の調査を比較した結果、甲状腺がんの増加率は0.2%〜0.6%で、汚染地域の間の違いはあった」という曖昧な表現で締めくくっている。
「甲状腺がんとヨード欠乏」について、「一般的に放射線に関係した甲状腺がんにおけるヨード欠乏の役割を研究するのは困難だ。なぜなら最も関連ある時期、被ばく時のヨード摂取のデータが手に入らないからだ」と始めている。この論文に掲載されている1986年5月時点の土壌汚染地図によると、3州の中ではブレスト州は汚染度が最も低い地域で、185kBq/㎡以下、次にモギリョフ、ゴメリの順で、放射性ヨウ素131の甲状腺被ばく量の平均値も同様に、ブレスト州51mGy、モギリョフ州65mGy、ゴメリ州320mGyとなっている。ところが、小児甲状腺がんの罹患者数はブレスト州245人、罹患率5.51人(10万人対)、モギリョフ州罹患者数56人、罹患率1.5人、ゴメリ州罹患者数552人、罹患率11人となっている。
この数値とヨード欠乏の関係を論じた節の結論では「チェルノブイリ事故当時、ブレスト州はゴメリ州やモギリョフ州よりもヨード不足というわけではないようだ。これに加えて、放射性ヨウ素131の甲状腺被ばく量がわずかに低いという事実によっては、ブレスト州における小児甲状腺がん罹患率がモギリョフ州より高いことを説明できない。個人のヨード摂取の役割を除外することはできないにしても」となっていて、歯切れが悪い。素人的な読み方では、「低線量被ばくでも甲状腺がんが増加し、それは超音波検査のせいでも、ヨード不足のせいでもない」となる。
「甲状腺がんと硝酸塩汚染」では、1960年から1990年の間にベラルーシでは窒素肥料の使用が20〜25倍増え、地下水の硝酸塩量が平均1.1から41.6mg/Lにふえたと説明している。ゴメリ州の地下水の硝酸塩濃度は1990年代初頭に112mg/L、モギリョフ州では40mg/L、ブレスト州では185mg/Lだった。井戸から地下水を汲んで飲料水にするのがベラルーシの地方では普通である。土壌汚染度と硝酸塩濃度と甲状腺がん罹患率を比べてみると、放射線量と罹患率は相関関係があるのに、硝酸塩濃度とはないこと、放射線の影響が硝酸塩濃度によって有意に変化することを発見した。ありえる説明は、地域レベルでは放射線の影響は飲用水中の硝酸塩濃度レベルによって変化するのかもしれない。放射線被ばくの後に甲状腺がんを発症するリスクに硝酸塩汚染が影響することを量的に証明する分析的疫学調査が必要である。2015年のこの論文の結論は、上記の1989年5月にベラルーシ医師が言ったこと(硝酸塩などの要因は放射能の破壊的効果を強める)を証明したということだろう。
放射線被ばくと硝酸塩摂取の複合汚染被害に関する論文:福島
山下俊一氏は福島県の汚染地域の硝酸塩濃度と甲状腺がん罹患率の関係も調査研究始めている。上記の「甲状腺がんの原因物質の同定に向けた挑戦的疫学調査研究」と題する科研費申請書(2014年度〜2015年度 注9)によると、以下のことが記されている。
- はま通り地域の地下水の硝酸性窒素及び亜硝酸性窒素の濃度が高い(11〜38mg/L)と報告されているので、サンプリング調査した。
- 川内村各地域地区の水道水、地下水のサンプリングを104か所で行い、硝酸態窒素濃度の測定を行ったところ、水道水・地下水の中間値は0.62mg/Lで、基準値の10mg/L以下だった。亜硝酸窒素も0.005mg/L以下だった。
- 川内村における亜硝酸動態の異常が甲状腺超音波所見に直接関与している可能性は乏しく、チェルノブイリとの大きな違いがある。
この科研の成果と考えられる「福島県川内村の飲料水中の硝酸塩が暗示すること」という題名の論文が国際学術誌『甲状腺』に2015年8月(注10)に掲載されたが、オープンアクセスではないため、川内村の人々もその他の市民も読むことはできない。研究機関に所属していれば、機関契約などで無料閲覧できるだろうが、一般市民が読むには高額を支払う必要がある。私たちの税金で行われた研究なのに、なぜ市民はアクセスできないのだろう。
この論文のfirst author(第一執筆者)の折田真紀子氏は2013年の情報(注11)では、長崎大学原爆後障害医療研究所の大学院生で、「長崎大学・川内村復興推進拠点に常駐している」保健師とのことである。折田保健師は川内村役場と連携しながら、「放射性物質の測定や住民との対話を通じたリスクコミュニケーションの実践」を通して、住民の帰還と地域の復興に寄与すると評価されているそうだ。
科学論文でfirst authorというのは非常に重要な意味を持ち、研究で中心的役割を果たし、論文執筆でも中心的な存在であり、研究業績として認められる際にfirst authorとそれ以下では雲泥の差がある。折田氏が川内村に元村民を帰還させるための役割を担って、科研費論文の第一執筆者になったのだとしたら、国民市民の税金を使って原子力推進派(企業・政府・行政を含む)のための研究を行っていることになりはしないか。
また、この研究申請書には「川内村各地域地区の水道水、地下水のサンプリング」と書かれているが、川内村から避難している方に伺うと、川内村には水道はないとのことだ。事故後に水道が敷かれたのだろうか?
水道水の水質基準改正:亜硝酸態窒素の基準値
これらの研究動向を反映しているのだろうか、2013年7月に食品安全委員会が「水道により供給される水の水質基準改正に係る食品健康影響評価(亜硝酸態窒素)」を通知し、それに基づいて厚労省が「水質基準に関する省令」の一部を改正した。その結果、2014年4月1日より施行された亜硝酸態窒素の基準値は0.04mg/リットルとなった(注12)。茨城県のHPでなぜ基準値に設定されたか、どんな健康影響があるかなど解説している(注13)。
注1:アラ・ヤロシンスカヤ、和田あき子(訳)『隠された事故報告—チェルノブイリ極秘—』(1992)、平凡社、1994, p.83.この本は絶版だが、同著者の『チェルノブイリの嘘』(緑風出版、2016)に当時の様子とその後について書かれているそうだ。
注2:上掲書、p.181.
注3:ミハイル・マリコ「チェルノブイリ原発事故:国際原子力共同体の危機」、今中哲二(編)『チェルノブイリ事故による放射能災害:国際共同研究報告書』、技術と人間、1998
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Malko96A-j.html注4:Mary H. Ward et al., “Nitrate Intake and the Risk of Thyroid Cancer and Thyroid Disease”, Epidemiology, vol.21, no.3, pp.389-395, 2010.
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2879161/
(雑誌掲載論文ではなく、執筆者たちの原稿がオープンアクセスになっている)注5:B.A. Kilfoy et al., “Dietary nitrate and nitrite and the risk of thyroid cancer in the NIH-AARP diet and health study”, International Journal of Cancer, vol.129, no.1, pp.160-172, 2011
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3016446/(同上原稿)注6:V. Drozd et at.,「チェルノブイリ・フォールアウトの影響を受けた住民の甲状腺と唾液線に対する環境硝酸塩の影響」Endocrine abstracts (2012)はオープンアクセスではないが、アブストラクトの翻訳が「注目翻訳記事—みんなの翻訳—」からアクセス可能。
http://trans-aid.jp/index.php/article/detail/id/38913/at/feature注7:Valentina M. Drozd et al., “Major Factors Affecting Incidence of Childhood Thyroid Cancer in Belarus after the Chernobyl Accident: do Nitrates in Drinking Water Play a Role?”, PLOS ONE, Sept. 23, 2015.
http://journals.plos.org/plosone/article/related?id=10.1371%2Fjournal.pone.0137226注8:日本学術振興会科学研究費データベース
https://kaken.nii.ac.jp/search/?qm=30200679注9:日本学術振興会科学研究費データベース
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-26670460/
https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-26670460/RECORD-266704602014hokoku/注10:Orita Makiko et al., “Implication of Nitrate in Drinking Water in Kawauchi Village, Fukushima”, Thyroid, vol.25 issue 9: Augst 31 2015.
執筆者の中には県民健康調査検討委員会委員だった鈴木鎮一氏、現委員の高村昇氏、そして研究代表者の山下俊一氏も入っている。
http://online.liebertpub.com/doi/abs/10.1089/thy.2015.0161注11:「原爆後障害医療研究所高村教授と折田保健師が根本匠復興大臣と面談」長崎大学、2013年12月4日
http://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/about/info/news/news1389.html注12:厚生労働省「水質基準省令の改正等について 平成26年4月1日施行」平成26年5月9日 http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000042109.html
注13:茨城県「水道水質基準についてー亜硝酸態窒素についてー」2016年5月30日
http://www.pref.ibaraki.jp/hokenfukushi/eiken/kikaku/information/7saikin/201605water.html