健康権を要求する市民の勝利
ロシア政府報告書中の「政治的危機状況のもとでの防護方策の苦労」(pp.15〜18 注1)には、チェルノブイリ法制定前に、「生涯350mSv」という案を出した科学者グループがいて、政府もそれを採用しようとしたが、市民と良心的科学者などが大反対して、年1mSv以上は避難/移住の権利を持つという法案ができたことが記されている。
政治的危機状況のもとでの防護方策の苦労(pp.15〜18)
● 「オープンな政策」(注2)が進む一方で、[汚染や被害の]データを極秘としたことが厳しい批判の対象となり、それが後に事故の被害を軽減する複雑な活動、政府の決定やソビエト科学者の提言にまで[批判が]及んでいった。
● この批判ムードが頂点に達したのは、国立放射線防護委員会(NCRP)が提案した「35レム概念」(350mSv)の議論になったときである。NCRPは汚染地域を比較的短期間に除染するために政策決定の選択肢として、生涯70年に35レム(350mSv)を許容値とする提案をした。世界で初めて、年間の線量限度でなく、生涯の線量限度という概念を提供したのである。このアプローチは公衆の放射線防護の信頼できるものを提供するだけでなく、年間余剰被ばく限度線量に伴う急変のかわりに、どの地域にとっても最終的な解決方法として歴史的に目に見える展望を与えるのである。
● 政府がこの概念を受け入れると、避難/移住が唯一の放射線防護法だと信じる市民と地方自治体の強烈な反対にあった。
訳者解説:生涯70年に35レム(350mSv)に対する反対
「生涯350mSv」をめぐる市民の反発について、事故当時ウクライナのジャーナリストで、2歳の男の子の母親だったアラ・ヤロシンスカヤが事故後の5年間を記録した『チェルノブイリ極秘』(1992 注3)で述べているので、紹介する。ソ連メディアが被ばく問題に目をつぶる中で、ヤロシンスカヤは被災地を取材し、避難の必要性を訴え続けた。そして「当局のお気に入りでないジャーナリスト」の果敢な言動が住民から信頼を得て、議員になってほしいと懇願される。共産党機関もメディアも「強力な反ヤロシンスカヤ・キャンペーン」を展開する中で、巨大な労働者集団の推薦を受けて、ソ連初の自由な選挙、ソ連邦人民代議員選挙(1989年3月)で勝利し、彼女は事故の結果について「国家の官僚たちが腐敗したジャーナリストたちの助けを借りながらふりまいた嘘」をモスクワで暴くため、また、「秘密資料を入手し、それらを情報公開して、騙されている人たちを助け」ようと決意したという。
事故前の被ばく許容線量は年0.5レム(5mSv)だったが、入手した機密文書からわかったことは、事故から12日後の1986年5月8日に、ソ連邦保健省は被ばく許容基準値を生涯70年間に70レム(700mSv)に引き上げ、その後50レム(500mSv)、1987年から35レム(350mSv)にした。生涯70年で35レム(350mSv)を提案したのは当時ソ連保健省放射線防護国家委員会委員長のレオニード・A.イリインで、1990年まで様々な政府決定の基礎にされたという。しかし、事故前の論文でイリインは、「平均的な人間が2.16レム[22mSv]の線量を被曝した結果起こる致死性腫瘍の数は、20年間で120万件となり、これに対応する遺伝的影響の総数は、38万人となる」(p.147)と述べていたのだ。
事故4日後の4月30日にキエフ市の放射線レベルが急上昇し、最高2.2ミリレントゲン/時[22μSv/時](p.132)だったが、イリインたち政府系科学/医学者はキエフから子どもたちを疎開させる必要はないと主張したため、キエフの子どもたちは5月1日にメーデー行進させられて被ばくした。子どもたちが疎開させられたのは5月7日だったという。
ヤロシンスカヤらの努力で、1990年に国家審査委員会が設けられ、経験のある専門家たち、社会団体、市民運動のグループ、ヤロシンスカヤら議員など約100人が参加する「望みうる最高の」委員会を編成することができた。委員会の見解はイリインの生涯35レム(350mSv)は学問的に認めがたい、政府がなぜ「汚染地での居住は安全だとするこのシステムを採用し」たかを見抜く議論をした。イリインをはじめとする放射線医学機関の学者グループは「35レムは被ばくしても安全だ」と主張し、審査委員会の背後で大統領ゴルバチョフにアピール文書を送ったが、ゴルバチョフは35レム説を取り入れる指令は出さなかった。
そして、ソ連最高会議委員会の公聴会でイリイン説に対する批判が多くの専門家から出された。政府のエコロジー委員会専門家は、35レム説は一般に認められている被曝線量限度年0.5レムを70倍(生涯70年)して得られたもので、科学的アプローチに見せかけて、1年に0.5〜35レムまで被ばくしても害はないと思わせ、避難させないためだと批判した。また、ウクライナの議員は「この説は医学的なものというより経済的なものだ」「これはその地域に住んでいる人々への背信行為である」「1986年4〜5月に現地で起こったことが何も考慮されていない」と述べた。他の委員は「その本質においてこの説は、反人道的なものである」と指摘した。2日間の公聴会で発言した10人のうち、生涯35レム説を支持し、「チェルノブイリ大惨事による損失を破廉恥にも交通事故による損失と比較したのはただ1人だけだった」(p.166)という。
イリインも発言し、35レム説は汚染地で住民が居住できるように、すべての基準値が自動的に下げられると想定してのことだ、すべてのリスクは便益と天秤にかけて決めなければならないと述べたが、会場から「あなたの発言は医学者としてでなく、経済学者として発言していたことを証明している」(p.169)というコメントがあった。これらの議論の後、ベラルーシの最高会議チェルノブイリ原発事故処理委員会委員長が「われわれは効力だの、価格だの、経済的利得だのについて語っている。だが問題は、最大の富である人間の健康ではないのか」と訴えた。安全な非汚染地に避難/移住させるか、汚染地に居住させるかを価格で捉えた場合、ベラルーシの専門家の試算では、汚染地に28年間住み続けさせ、必要な保障をすると、安全な場所に移住させるよりも国家には2倍半高くつくという。こうして、ロシア政府報告書が「妥協の産物」と評したチェルノブイリ法が成立したのである。つまり、年1mSv以上に避難の権利を、5mSv以上に全員避難/移住をという基準としたのである。
注1:『チェルノブイリ事故の20年間—ロシアにおける被害除去の結果と問題 1986〜2006 ロシア政府報告書』(2006)、Ministry of the Russian Federation for Civil Defense, Emergencies, and Elimination of Consequences of Natural Disasters & Ministry of Health and Social Development of the Russian Federation (2006), S.K. Shoigu and L.A. Bolshov (eds), TWENTY YEARS OF THE CHERNOBYL ACCIDENT: Results and Problems in Eliminating Consequences in Russia 1986-2006 Russian National Report
http://chernobyl.undp.org/english/docs/rus_natrep_2006_eng.pdf注2:事故当時、ソ連の最高指導者・共産党書記長だったミハイル・ゴルバチョフ(1931-)が提唱した公開性(グラスノスチ)を指す。今年、ゴルバチョフ氏がグラスノスチを「言論の自由」「国家の行動における公開性」と表現した寄稿記事「今、ペレストロイカについて」(2015年3月23日)を発表している。『ロシアNow』に日本語訳が掲載されているので、参照してほしい。
http://jp.rbth.com/opinion/2015/03/23/52377.html注3:アラ・ヤロシンスカヤ、和田あき子(訳)『チェルノブイリ極秘』(原作出版年:1992)平凡社、1994.